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"無敵の人"が増えると世界が平和になる ひきこもりが語る「無敵の人」


はじめに

私は合計で10年以上ひきこもり生活を続けている者で、当然、碌な経歴や社会的地位も持ち合わせておりません。長期のひきこもり生活によって、日々心身の機能もジワジワと低下し続けております。食事や光熱費を年老いた両親に依存して辛うじて生きており、自分で自由に使えるお金などは当然ほとんどありません。稀に無職のことを「永遠の夏休み」と羨んだりするものですが、実際は学校の皆に嫌われて、宿題も終わっていないままで迎えた夏休み最終日が永久に続いているような感覚です。人によってはどうやって今日に至るまで正気を保って生きてきたのか、甚だ不思議に映る存在でしょう。私のような人間は、世間的には所謂、「無敵の人」の有力候補なのだと思います。

※「無敵の人」とは?
社会的規範に於いて特に失うものが無いとされる生活困窮者による、自暴自棄の無差別傷害・殺人事件がメディア報道されたことをきっかけに造り出され、流行したネット俗語。犯罪を起こすことについて躊躇を持たない、生活困窮者本人を指す。

「無敵の人」を想う

京アニ放火事件や特急電車内での傷害事件が世で報道され、「無敵の人」なる造語が生まれた当時は、私が身を置いているひきこもり界隈も多少はザワついたことを記憶しています。二重の意味を込めての「自分も気を付けないと」だったり、「自分も事件を起こせるだけの行動力があれば、ひきこもりになんてならずに済んだ」といった冗談なんかも飛び交っていたものです。
そういう話を聞く度に私は「良いキレだ」と笑っていたものですが、冷静に考えてみて、俗に言う「無敵の人」と自分との間には本当に、大きな精神的隔たりがあるように感じられてきました。

そもそも、「事件を起こすだけの気概や行動力が無いから、社会に適応できず困っている」という前提もありますし、また、「エネルギーの爆発が外ではなく内に向かってしまう」といった根本的な内向気質も、ひきこもりがひきこもりたる所以です。

そして実際、世に報道されている「無敵の人」らに関しましても、そのほとんどはきちんと社会人として世に出て労働に馴染んできた人々であることも密かに開示されています。

自身を含め、これまでに関わってきたひきこもりの方々の傾向から見ましても、世界に対して絶望した際に取る行動といえば「自傷」や「自殺」といった風にエネルギーの回路が極めて"内方向性"である様子が観測されます。
(だからこそ「ひきこもり」になる、というそもそもの話ですが…)

そういった点から、実は無敵の人と一番遠い人種が「ひきこもり」であって、反対に無敵の人に一番近いのは、世に出てしっかりと働いてきた経験がある、エネルギーを外方向に向ける素質と、行動力を備え持った「社会人」の方々なのではないか? そんな、世間の印象とは正反対の発想も自然と浮かび上がってくるのです。これは私が何か「世に申す」態度を取ろうとしているわけではなく、そういった発想が自然に心に浮かび上がってくるという限りになります。

そして実際の統計としても世の犯罪者のほとんどは社会人であって、ひきこもりが占める割合は極めて少ないのだと、ひきこもり関連の書籍でそのように説明されているのをよく見掛けます。

世間的な印象で測った場合、恐らく最も事件や犯罪に近いであろう「ひきこもり」という存在が、実際には一番それらと遠いところにある。こう考えてみると、一人のひきこもり当人としても実に奇妙で面白い話に思えてくる次第です。

報道に見られるマスメディアの危険性

無差別殺人事件についてを「近年の社会問題」として議論される光景が、今日のニュース番組の論壇ではすっかりお馴染みになり果てたものだと存じております。そこでは社会学、心理学など専門的な立場からの分析が恐らく織り交ぜられ、論ぜられるのでしょうけれど、私個人としましては論よりもまず先に「無差別殺人なんてくだらない」と一蹴する気持ちが湧いて出てきます。

無差別殺人事件に対する擁護的な文脈としてメジャーなものは、「社会に問題がある」→「個人が困窮する」→「無差別殺人が起きるのも道理である」といったものだと思います。私はこれを一理あると思いますし、実際に社会に問題があって個体が病むという構造は自然の世界にも見られる地球上の原則だと思っています。

例えば、一帯の木々が勝手に黒ずんだり枯れたりしだす場合は、土壌に何らかの有害物質が撒かれたり、不自然な虫が湧いていたり、気象に異常があるなど環境側の問題に起因するもので、それに対して「木々それぞれの自己責任だ」などと根性論の類を幾ら力説したところで、一向に埒は明きません。水槽で飼っている魚に異変が起きている場合でも同様です。現代社会に於きましても、砂糖の過剰摂取、農薬や添加物による脳や心身の障害発生、情緒不安定、病的な労働形態、異常な経済不況、各メディアが面白半分で植え付けてまわる民間の対立思考などが根底の問題だとは思いますが、いずれも「弱者を無視しない」などと抽象的な言葉遊びに行き着くばかりで、物理的な問題を深堀りする姿勢が見られません。「なぜ日本の発達障害者が世界一多いのか?」「なぜ先進国の中で唯一ガンが増え続けているのか?」「何故ここ数年で超過死亡が増えているのか?」こんなわかりやすい危機さえも、"報道しない自由"といった便利な名目でだんまりが決めこまれている状況です。ここからもわかるように、そもそも大手マスメディアには問題解決に当たる誠意も信念も何もないのです。ただの"金稼ぎ"として、あくまでも報道コンテンツを盛り上げたがっているに過ぎません。極めて不真面目で、愉快犯的な態度です。

それはそうとして、「無差別殺人それ自体を容認しうる報道」を行うことによってもまた別の問題が生じていると私は危惧しています。「そうか、社会が悪いなら俺が無差別殺人を起こすのも仕方ない」という風に、こうした報道はギリギリの領域で踏みとどまっている人間の背中を押す行為にもなり兼ねないからです。同時に、非生活困窮者の無意識下に「生活困窮者は恐ろしい」「自分もそのうち面識もなく殺されるかも知れない」といった不安を悪戯に植え付けてしまいます。これによって、生活困窮者と非生活困窮者の溝は増々深まるのです。こういった無責任な報道を行うマスメディアの態度というものもまた、世に無差別殺人を増加させようとする、間接的な犯罪促進
キャンペーンとなっているのではないでしょうか?

更に「無敵の人」といった造語を用いて人間を分類することによって、先天的には一切そういった気質も願望も持たなかった生活困窮者を「自分も、もしかしたらそうかも知れない…」と、無意識のレベルで一歩そちら側に寄せてしまう危険性まであるのです。これは非常に厄介なことで、社会にとっても本人にとっても望まぬ未来を招きかねません。マスコミの報道がきっかけで自分を「無敵の人かも知れない」と認識してしまった生活困窮者の同志がいれば、なるべく早くそこから抜け出してください。あなたはいつでもこの現実世界を生きてこられたあなたであり、画面に映し出される報道に人生が由来しているわけがありません。

そもそも、日頃から人民たちの互いの格付け、対立を煽って視聴数を荒稼ぎしておきながら、報道内容によってはコロコロと都合よく立場を変えて、善性の報道機関を取り繕うとしている態度に反吐が出ます。

「無差別殺人」をしない方が良い理由

次に、「無差別殺人をしない方が良い理由」について、感情的に自論を語ってみようと思います。ネットの片隅の小さな主張になりますが、報道の空気感に乗せられて不自然に「無差別殺人」の世界に引っ張られてしまう人が一人でも減ることを願っています。

まず、無差別殺人とはその名の示す通り"無差別"という特徴の通り、相手の素性を知り得えない殺人行為です。そこで、自分と同じように様々な辛さ、絶望を抱えている人間を殺してしまう可能性も必然的に高くなります。本人が「権力に対しての主張」「成功者への妬み」のつもりでそれを行ったところで、実際は同じく苦しみ続けている人間を殺してしまうだけの虚しい結果になりかねないのです。

人間とは、実際には自殺寸前までの精神状態に追い詰められている場合でも、外側から見れば健常な社会人と見分けがつきません。人は見た目だけでは何もわからないものです。それどころか、ほんの少し未来には自分と何らかのきっかけで知り合い、親友になっていた相手、恋人の仲になっていた相手を殺してしまうかも知れません。「運命の人」を自らの手で失ってしまうかも知れません。そんな場合は、悔やんでも悔やみきれないだろうと思います。命を使って時間を巻き戻してでも、あの失敗だけは取り消したいと願う筈です。仮に殺す対象が直接的には縁が無い相手だとしても、その人の子供が将来、自分の仲間ではないとどうして断言できるでしょうか? 自分と同じような性格で、この世界に対して同じような感じ方をして、周囲から孤立して、絶望を抱えて生きるかも知れません。そんな場合、その子を救ってあげられるのは自分しかいないかも知れないのです。

また、衝動的に無差別殺人を行ったこと自体を、未来永劫後悔し続けると思います。良いものは何も残らないからです。

このように、少し冷静になって想像力を取り戻してみると、「無差別殺人」が如何に空虚な行為であるかが自ずとわかってくることかと思います。

ちなみにですが、この世に生を受けた人間である以上、わざわざ労力を掛けて無差別に殺したりせずとも、将来的に全員が死んでしまうことが確定しています。どの道、みんな死ぬのです。

特定の気質の人間が嫌という場合は(例えば、いじめっ子が憎い)、あくまでも現代基準で合法に、長期的に風潮面を変えていって、嫌いな人々が生き辛くなる世界を築く方向性に労力を費やす方が、遥かに大規模で、より効果的な制裁になると思います。

全員が「無敵の人」になるべき理由

ここまで色々と「無敵の人」といった俗語に関しての駄弁を続けて参りましたが、実はそういった定義や世界観丸ごと「くだらない」と一蹴する気持ちが私には強くあります。

食材がどんな料理になるかは調理法次第です。
近年のマスコミは稀に起きる「無差別殺傷事件」を利用して、これまでと同様に遊び感覚で視聴数を荒稼いでいるに過ぎないと私は考えています。それを社会問題として論ずるだけの真摯さも、また深い哲学も個人的には一切見受けられなかったからです。

我々小市民といえば、日々踊らされています。
政治、マスコミ、国際情勢。
男女間対立、世代間対立、収入間対立等々…。

こんな光景を見て、牧場主が掲げる旗の色を見て興奮した家畜があっちいったりこっちいったり、走ったり疲れたり、仕舞いには隣の家畜の横腹でも蹴ったり、なるべく体格の小さな家畜にのしかかったりして、「ホラ、俺はこんなに偉いから、家畜ではない」と悦に入り、牧場主達は柵の外からそれを見て爆笑している。そんな極めて虚しい世界が私の目には映っています。

あくまでも手のひらで転がされ続けるだけの、柵の中の世界。ただでさえ狭い世界の中で、憎悪のコントロールとしてわざわざ隣の家畜を恨むよう仕向けられる。日々刺激的に、入念に。そこで提示される勝利の果てにあるものは「俺は家畜ではない!」という家畜として高揚感、そして一時の絶叫。柵の外からの細やかな嘲笑。私は本当にそれら全てを「くだらない」と思います。

「無敵の人」。敢えてこの下品な造語に乗っかるならば、そんなくだらない柵の中の世界を破壊する為に、世の中の全員が外部から止めどなく押し掛けるあらゆる抑圧に対しての"無敵の人"になるべきだと私は考えています。

そのように、邪悪な牧場主に対しての"無敵の人"が増えていった先で、人々は遂に隣人と打ち解け、己の人生を取り戻し、ただ生きているだけで幸福が感じられる平和な世界がある筈です。

そこに辿り着く為にも、まずは人々が現代のマスメディアや政治が囲った狭小な柵の中での対立の手を止め、より建設的な破壊行動へ向けて結託することが、大きな第一歩になるのです。

以上、社会一般の目からすれば恐らくとっくに「無敵の人」。
長期ひきこもりの熱心な戯言でした。


このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)