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長期ひきこもりが見出した、心身を蝕む「無能感」への対処法4選


前置き

「無能感への対処方について、ブログ記事を書いて欲しい」

不意に、知人からこうした旨のリクエストを頂きました。

記事のリクエストを受けるなんてそうそう無いことなので、これもまた何かのご縁でしょうか。

「拙い自論で良ければ……」と恐縮な気持ちが半分、「良くも悪くも自論が面白い人間だと思ってもらえているのだな」と嬉しい気持ちが半分ということで、やや夏バテ気味の頭を冷ましつつ筆を執ってみようと思います。

「無能感」と言えば、私のように経歴も経済力も無いひきこもりにとってはもはや人生を共に歩むパートナーのようなもの。暑い時にはパタパタと団扇で扇いでいてくれますし、夏休みの宿題も寝ている内に勝手に済ませてくれます。私がこうしてくだらないnote記事を綴っている内にもせっせと夜の街に繰り出して、札束がぎっしり詰まったスーツケースを持って帰ってきてくれます。

……なんて、実際はそんな都合の良い話があるわけもなく、「無能感」は当人が望む、望まないに関わらず日常生活のそこかしこで頭を出して、心をどん底まで沈み込ませてくるものです。あの青白い禿げ頭に、ゾッとするような鈍い眼光……。頻繁に頭を抱えさせてきますし、ヒドイ時には無能感で嗚咽が出ることだってあります。就寝時などにこれと出会えば最悪で、普段なら心身を匿ってくれる温かな夜闇の抱擁は、未来を閉ざす漆黒の牢獄へと一変してしまうのです。「自分の存在とは一体何なんだ」と、生きていることが情けなくて仕方ない気持ちになるのです。

そういうわけで、実際「無能感」との付き合いに関してはとことん長いと自負しております。特に私のようにレールを踏み外して生きる人間にとっては避けがたく、厄介なものであることには違いないでしょうから、自他共に認める歴戦の無能として、ここで堂々と四つ程、彼と上手く付き合ってゆく為のコツというものをご提案させていただきますので、宜しければお付き合いください。

その1.「開き直る」

一つ目が、文字通り"開き直る"ことです。

始まって早々に「なんて投げやりなひきこもりだ……」と思われ兼ねない意見ではあるものの、本人は至って大真面目に書いております。

つまりこれは、「自分は無能だ」「だからどうした」「無能として人生を楽しんでいこうじゃないか」という風な姿勢に転ずることを推奨するものです。

無能感に占められる際は「無能であってはいけない」という前提に囚われているのがお決まりです。そしてその根本の領域から開き直る、言い換えれば、禍を転じて福と為すわけでございます。

そもそもの話、私たちは他人が無能であれ、他生物が無能であれ、植物が無能であれ、存外に気には留めてはいないものですし、大量生産大量消費といった目先の欲望で前のめりになっている狭小な現代社会の価値基準で図る「無能」という感覚ほど信用ならないものも無いでしょう。トップに「有能」を取り揃えていった先で、飢餓に戦争、幸福度の低下、精神病患者急増、障害者増加、自殺者多発、経済は崩壊寸前というのが実情です。

現に、人間の目からは無能で何の価値もないように見える生物や自然現象たちは、どれも大抵独自のやり方で地球環境の一端を担っております。現代では単に除菌・殺菌の対象として扱われないような菌類たちが、よく知ればゴミを宝に変えている素敵な錬金術師の生き残り達であったと気付く事例なども山ほどございます。しかし彼らも現代社会の基準で見れば無能に他ならないのでしょうし、突き詰めれば我々が住まうこの地球という星でさえも「無能」扱いになってしまうのではないでしょうか。

単に人間の世界であっても、社会基準では「無能」でありながら、沢山の仲間に慕われて幸せな生涯を送る人間は沢山居ます。

人であれ菌であれ星であれ、言ってしまえば社会の無能は宇宙の有能。

無能として堂々と生きてゆけば良いと思います。

その2.「メッセージとして受け入れる」

「無能感」に苛まれる際は、必ず原因があるものです。

他人よりも早く走れない。他人よりも喋りが下手。他人よりも稼げない。

こうして考えると「無能感」というものもまた、「原因があって結果がある」という普遍的な真理の延長上に位置するもので、つまり原因への対処・対策を促進する為に搭載されている、人間の自然な心の働きであるとも考えられてくるわけです。

そこで私たちは、「なぜこのタイミングで無能感に占められるのか?」「何か一つでも良いので、手を打てることはないだろうか?」とメッセージを読み取るべくこれに目を凝らし、耳を澄ますことで、「無能感」を単に生存の副産物として扱うのではなく、いつも人生の打開に関わる重要なサインをくれる天使として味方に付けることが叶うわけです。

実際、原因が存在しない無能感などあり得ませんし、対応する打開策というものが必ず存在しています。人は気分が沈んでいる時ほど視野が暗くなりがちなので、「速く走れない原因は、靴紐が解けているせいだった」という至って単純な気付きから、人生が好転することだってあります。

それに、低次の生命体はそもそも「無能感」を持ち得ません。つまり「無能感」とは、心理機能が高度に発達した人間にこそ備わる能力の一つであるとして大切に向き合い、味方に付けてゆく心構えが将来的に大きな利益を齎してくれそうです。

その3.「無能のメリットを知る」

世間ではあまり取沙汰されないものですが、実は無能には無能なりの長所がございます。

第一に、「自由である」ことです。

何かしらの能力に秀でた人間は、それ故に周囲から大きな成果を期待され続けるものです。自分が目指す道では無かった筈が、下手に能力があったせいで人々の目に留まり、生き方を強制されてしまう。そんなこともあると思っています。勝手に期待されて沢山の仕事を押し付けられたり、酷い場合は監禁されて能力だけを搾取され続けることだってある知れません。

一般に「能ある鷹は爪を隠す」などと言いますが、才能を隠し通せない瞬間も訪れるものです。しかし無能なものは「出す爪も無い」のでありますから、一方的に期待を背負わされたり、有能であるが故に生き方を強制されたり、拉致監禁されるようなことがないわけです。

第二に、「抑圧性の苦痛が少ない」のが無能の長所です。

人の苦痛や不幸とは「抑圧」とほぼ同義であり、反対に快楽や幸福とは「解放」であるといった性質があります。有能な人間であればあるほど、社会生活を送る上で他者と足並みを揃えたり、同じ論壇に立つにあたって「能力を抑圧する」という必要性が出てくるのです。

しかも、その者が有している潜在的な能力が高ければ高いほど苦痛は増します。高校生に対して、「小学校に生徒として通い続けるように」などと強要すれば日に日に精神状態がおかしくなってくる筈です。授業で先が読めても飛ばさず真面目に聞かなければなりませんし、学校生活もちゃんと周囲のレベルに合わせながら過ごさなければなりません。これを大の大人などにやらせれば、もっと早々に発狂してしまうことでしょう。

「天才」と呼ばれるくらい能力のある人ほど、実は本人は不幸だったり早死にしてしまう傾向にありますが、その背景にはこういったカラクリがあるのではないかと予想しています。

一方で「無能」であればこそ日常的に能力の解放が容易く、たとえ天井の低い部屋に押し込まれたところで「首や背中の骨が捻じ曲がって死んでしまう」ようなことがないわけです。いい年して小学校に生徒として通わされたところで、普通に授業を楽しめてしまいます。「自分は無能だ」と幾らか苦心はしながらも、体を傷めずに伸び伸びと生きていける側面があるわけです。

そもそも本当に無能なのか?

そしてそもそもの話ですが、自分のことを「無能だ」と思える時点で本当の無能では無いと思っています。己を客観し、内省するだけ能力があるからです。

本当の無能というのは、何の得意もないくせに全能感に満ちていて、いつでも威張り腐っており、何もしないくせに文句だけは達者で、平気で他人を傷付けて、他人の不幸を喜んで、反省すらしない者なのです。

世界をそういう人間の独壇場にしてしまわぬように、内省能力を持つ自称・無能の人間たちは例え自信が無くても生きてゆかねばならない。これが実情ではないでしょうか。


その4.「熱中する」

「何も熱中しているものが無い時」

自身の経験を振り返ってみると、「無能感」に占められるタイミングはいずれもこの点で共通しているようです。

つまり無能感が生じるにあたって幾らかは、「持て余した意識エネルギーが行き場を失い、やむを得ず自責に向かっている」という発生原理があることが推測出来て参ります。

だとすれば、無能感が沸き上がってきた際には一旦冷静になり、「今の自分に熱中しているものはあったか?」「実は物凄く暇なだけなんじゃないか?」と考えてみるのも有効かも知れません。

現にこうしてnoteで背伸びをしながら必死で文章を綴っているような時には、無能感が服を着て(ついでに仮面まで被って)歩いているようなホロ9でさえ、無能感がちっとも湧き上がって来ないのです。そうなるともう、服と仮面だけが浮遊しながら動き回っている妖怪です。

「劣等感」にも近しい原理がある気がします。隣の芝生の青さにハンカチを噛み締めるような時、大抵は自分の庭を耕す手足が止まっているものだからです。その場限りであればまだしも、振り返ればもう何日も何週間も……。

ある意味ではこれもまた「起きるべくして起きている人体の軌道修正プログラム」ということで、無能感で胸が押しつぶされそうになるあの息苦しさを原動力に、尻に火を着けて「自分の庭」にせっせと取り組むのが一番良いのではないでしょうか。結局、そうしている内に今度は自分が羨まれる側に回っているというものです。

各自の庭には固有価値が約束されています。独自の花の配分や土の質、住んでいる生き物の違い、それに庭に佇むあなたが朝日や夕暮れを見る時の、あの独特の"感じ"というものは、代替の効かない固有性を誇ります。

最近、自己啓発の世界で心に残った言葉があるのでご紹介しておきます。

「人間は自信があるから行動できるのではなく、行動するから自信が出る」

というものです。20代の頃はこうした前向きな激励に対して理屈で返すような捻くれた無職でしたが、年を経れば経る程に、こういうのは本当に真理なのではないかと思わされてきています。

おわりに

以上、今回は「無能感」をテーマに記事を書いてみました。

「そういう記事があれば、同じ悩みを抱える人の役にも立つのではないか」というのもリクエストをくださった知人の狙いだったようなので、他の悩める日陰者、ひきこもり同志たちにも楽しんでいただければ幸いです。

私個人としても「無能感」には本当に長いこと悩まされてきただけあって、対処法は色々と拵えてきたつもりでいます。それでも時折重いものがやってきて心折れそうになるタイミングもあるので、今後もしっかりと向き合ってゆかねばなりません。

そういえば以前、今回と近しいテーマで投稿していたものがあったことを思い出しました。まだまだこの手の話題が足りないという方がいらっしゃいましたら、併せてコチラもいかがでしょうか。

ここまで拙文にお付き合いいただきまして、誠にありがとうございます。
良ければまた次回の記事でお会いいたしましょう。

人生の全てが有意義でありますように。







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