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「発信」についての感覚的な気付き

最近、ひとつ重要な気付きがあったので備忘録を付けておきます。

支持されている発信物の中でも、特に自分で視聴した際にも深い情感を得られたものらが有している「共通の特徴」についてを、遂に見出すことが叶いました。

それは「想像し、浸る余地がある」ということです。

先んじて用意したあらゆる結論をただ視聴者に押し付けるのでなく、あくまでも大枠となる斬新な骨組みだけは最初に与えておきながら、そこに伸び伸びと視聴者の新しい血や肉を形成させてあげる。

別の表現をするならば、木や川や山といった世界観を始めに与えて、そこを視聴者の意思で自由に散策させ、浸らせ、発見させてあげる。こうした状態を視聴者は「心地よい」と感じる傾向がある、といった具合です。

もっと違った表現をするならば「膨らむ余地のある発信」とでも言いましょうか。感覚で掴んだものなので言語化が難しいのですが、おおよそこのようになります。

私はこれまでの発信の中で、視聴者の行き先に立ちはだかり、あらゆる「結論」を次々と提示するようなやり方が主でしたが、ここにきてまた新たな"自己破壊"の方法が見つけられたことを喜んでいます。

秀逸な「導線」と、思考のエネルギーとなる「智慧」だけを散りばめて、後はあくまでも視聴者の自発性を尊重しつつ、ある意味では発信者本人は早々に舞台を降りてしまうような発信物。奥行きがあり、浸れる世界。高度ではありますが、いずれそうした方法論による発信を完成させてみたいという目標が生じました。

斬新な骨組みを与えておきながら、視聴者の意思でそこを探索させ膨らませる余地があり、いずれかは視聴者自身の新たな血肉となる発信物

これは一言で「教育」と言い換えることも出来そうです。

例えば……


庭にいた鳥が 木の枝から飛び立つ

この描写に留めておいて、鳥の大きさや形についてはその一切を指定しないわけです。

そうして周辺の情景描写だけはやけに事細かに行い、視聴者の自発的な鳥のサイズや姿かたち、色合い、鳴き声。つまり、来るべき視聴者の「鳥」を召喚させる。

これは謂わば、「人間」という媒体を介した、地球という星に対する黄金の採掘行為なのではないかと、物好きな私は心躍らされているのでした。

名のある芸術家の中にも、「自分の作品に明確な答えは無い」「それは既に鑑賞者自身のものだ」といった風に、解釈を委託する姿勢の方々が居るのを見てきました。私にはずっとそれが不思議でなりませんでしたが、今となっては少し腑に落ちた気がしています。

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