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「過去の失敗を生々しく思い出して嗚咽を漏らす」という怪現象について


不意に来る嗚咽

もしかするとこれは数ある「ひきこもりあるある」の内の一つかも知れませんが、遠い昔の失敗を今目の前で起きている出来事くらい生々しく思い出し、軽く嗚咽なんかも出るほど苦しくなる……という奇妙な現象に私は度々見舞われています。

誤解されてはいけないので補足しておくと、それらの内容はいずれもトラウマという規模のものではなく、些細なミスによってちょっと嫌な思いをしたとか、或いは先方にちょっとご迷惑を掛けてしまったくらいなものです。

どれもとっくに済んだものですし、その程度の内容を掘り起こして苦しんでいるのですから、「なんて非効率的で、精神力の無駄遣いだろうか」と頭ではわかって呆れておりますが、それは自然に内から起きてきて止められないのです。

これについて、つい先日知人とのやり取りの中で恐らく原因発覚に至って面白かったので、今回の記事ではそれをご紹介してみようと思います。勿論、学問という形での探求ではありませんし、あくまでも「仮説」ということで、ご笑納いただければと思います。

過去の「再起動」

初めに結論から申しますと、「過去の出来事が生々しく蘇ってきて苦しいのは、"現在"が極度に不足しているせいではないか?」という話になります。

これはPCを例に出すと分かりやすいのですが、一般的なPCといえば、現在アプリケーションを開いたり、何かしらの処理を実行していない場合、「有り余ったマシンパワーを過去のデータベース整理などに充てる」という仕組みを持っています。

これをそのまま人間の話に戻すと、あまりにもやることが無いせいで手持ち無沙汰となり、あっちこっちの箪笥の奥に仕舞われた埃まみれの古アルバムを取り出して、忙しく捲り始めるようなことになるでしょうか。

更に、私たち人間の脳にはそもそも「疲労」という概念が存在していないという説があります。「脳が疲れた」という感じるような時は、実際には脳の周辺にある筋肉や他の器官が疲れているだけというのです。その最たるものは我々が日常的に実感する通り「眼球」であり、「脳が疲れた気がしていたが、実際は目だけが疲れていた」という具合になるということです。

この説を採用して考えてみると、つまり脳とは「休まず働き続ける」宿命を背負った器官ということになります。

何かを目前にして、処理を行っているという体感が欲しいわけです。言い換えればそれは脳なりの「生の実感」であり「充実感」というものかも知れません。ひきこもりの私が辛うじてこうしてnote発信をやることなんかにも似ています。

そこで私のように生きているか死んでいるか判別の付かない、金太郎飴のように差がない日々を繰り返している人間は、脳が充実感を持って取り組めることがほとんどありません。世間一般と相対して見てみれば、「何もしていない」も同然でしょう。生物学的には生きていながら、まるでリアリティが無いのです。

ところが脳とは意外にもエネルギッシュな熱血漢で、止まること知らない。こんなに内蔵の冷え切ったネクラの脳みそでさえも(笑)

困り果てた挙句、過去の失敗なんかを「今目の前で起きている出来事」として感覚の中で再展開させることよって、仮想でも良いのでリアリティを取り戻そうとしている。そんな風に推察されてくるのです。

その奥にある「人体の不思議」

しかし理屈がわかったところで、「どうしてこんなに辛い想いをしなければならないんだ」と理不尽に感じてしまうのもまた正直なところです。「楽しい思い出だけを再展開させてくれれば良いのに」と恨めしい気持ちにもなります。

「そんなのは知ったことか」と言わんばかりに、小さなミスや、後悔、恥ずかしい想いばかりを続々と再展開し、骨の髄まで味わわせてくるこの恐ろしい頭頂の器官。

一方で、私自身も現在、己のあらゆる愚かさ、無力さ、無能さに対して、呆れたり、否定的な感情を抱いていることもまた事実だったことに気が付きました。

ここに目を向けてみると、かの有名な「引き寄せの法則」にも近しい不思議な原理がうっすらと体感されてくるのです。

「引き寄せの法則」なんて言葉はあるものの、実際世の中には、自分の意志や心構えとは関係なく、ただ理不尽に巻き込まれてしまう類の事件や事故といったものが多く存在しています。

その一方で、自分自身が何を思い出すか、何に注目するか、何を考えるかといった、自己完結的な世界も確かに存在しているのです。

たとえば、授業中の落書きでどんな絵を描くか、またはどんなテロリストと戦う妄想をするか、どんなダークドラゴンと契約して右腕に力を宿すかは、言わば外圧から離れた自己完結の世界における話です。

そもそもの話である「私が勝手に過去の辛い記憶を再展開させて苦しんでいる」のも、これと同じことだと言えます。

これをまたじっと見詰めている内に、心の何処かではそれを望んで"引き寄せている"という構造が予感されてきました。私の場合、その呼び水となるものが、現在の自身に対して抱いている「自己否定の感情」だったのではないでしょうか。

自覚のあるなしに関わらず、心の奥深くで望んでいる感情や、望んでいる体験。何らかの手段を使って、それを果たそうとしてくれる人体。

そう考えてみると、脳は単純に「望むものを提供してくれていただけ」ということで、実は敵のふりをした味方だったのではないか?という発想も出てくるわけです。

以前、こんな話を聞いたことがあります。
ゴルフ好きのAさんという男性がおりまして、Aさんはゴルフに出掛ける時はしょっちゅう転んだり怪我をしてしまう。「せっかく僕が大好きなゴルフなのに、どうしていつもこうなっちゃうんだ」と嘆くAさん。しかしある時、自分の胸に問いかけてみて"あること"に気付いてハッとします。ゴルフは確かに好きだが、毎度合うことになる同じくゴルフ好きのBさんとは妙に馬が合わず、気まずい思いをしてもいた。そこで思い切って通うゴルフ場を変えてみるのですが、するとこれまでが嘘だったかのように全く怪我しなくなるわけです。つまり「Bさんとは会いたくない」という無自覚の欲求を叶える為に、人体があの手この手を講じてBさんから遠退けようとしてくれていたというわけです。

そうなると我々のこの「人体」というものは、異常な世話焼きというか、お節介というか……(笑) 時に不器用な愛情で包み込んでくれるものなのだなと、何だか憎めない気持ちにもなってきます。

やけに理不尽ばかり降りかかってきたり、何の得にもならない筈の奇行を繰り返してしまうような時。そんな時は私たちの「心の奥にある欲求」が作用している場合があるかも知れません。

これを踏まえて私も「内省と苦心によって得られるエネルギーが、今の私には必要である」という風に考え直し、まだしばらくはこの厄介な人体のお節介を味わってみようと思います。

ちなみに人体とは、「そこから脱出させる為にわざと追い詰める」という荒業を使ってくることもあるため、幾ら向き合っても埒が明かない場合、無理は禁物でございます。

人間が病気に罹って痛かったり苦しい想いをするのも、強制的に休ませたり、張り付いている害虫をすぐさま取り除かせる為にやっているものだと言います。

そんなわけで、今回はちょっとした気付きの話でしたが、読者の方にも如何様にかお楽しみいただけておりますと幸いです。

このボタンから所謂"投げ銭"が行えるようです。物好きな方にオススメしておきます(笑)