まず自分から変われ

私はどちらかというと脳筋思考が嫌いです。「自分から率先して動け」「やれ、ただやれ」「理由など考えるな」などの、思考よりもまず行動、ひたすらに筋肉を動かせ、というのがどうも性格的に合わないようです。

今回のタイトルは、まるで脳筋っぽくなっていて、個人的にはあまり好きではないフレーズです。しかし、今回お話するのは、脳筋というよりも、どちらかというとお花畑に近いイメージなのかなぁ、と個人的には思います。

「なぜ自分から変わらなければならないのか」について、今回も聖書から語りたいと思います。どうぞ、お気楽に、最後までお読みいただければ幸いです。

周りが変われば、自分も変われるのに

私たちは耳よりも口が動きやすい性質を持っているように感じます。かくいう私は、SNSのタイムラインを見ると、いろんな人の「めんどくさい投稿」を見るたびに、「ああ、この人に一言いってやりてえな」と思うことがあります。つまり、他人に変わってほしい、というのが動機です。「この人が変わってくれれば、もっと世界はよくなるのに」「この人に一言言ってやって、この人が変わってくれればいいのに」そのように思います。

しかし、その思いの本質はなんでしょうか。恐らく、自分にとって都合の良い世界を望んでのことだと思います。決して、相手を愛しているから、とか、世界が良くなってほしいから、という大義名分ではないはずです。

また、こういうことを思ったことはないでしょうか。「会社が変わってくれれば、自分ももっと成果を出せるのに」「親が変わってくれれば、自分ももっと性格が豊かになれたのに」「もっと周りが愛してくれれば、自分も愛することができるのに」と、環境さえ変われば、自分も変わるのだ、ということ。私も、よくそのような考えに陥ってしまうことがあります。

確かに、環境が変われば、自分の中で何かしらの変化が生じます。それは事実です。しかし、それは環境的変化であって、根本的変化ではありません。環境的な変化は、周りの人がまた何かしらの理由で変わった場合、自分もそれに合わせて変わってしまいます。つまり、振り回されるわけです。

私たちは根本的な変化が必要です。もし、全世界が人殺しを許容し、嘘をつくのが当たり前になったとして、自分だけは人を殺さず、嘘をつかないでいられる。それが根本的変化です。

この「環境的変化」「根本的変化」については、こちら岡田博士が語ってくださっていますので、リンクを貼っておきます。

自分が変われば周りも変わる

イエスは言われました。

"与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。あなたがたが量るその秤で、あなたがたも量り返してもらえるからです。」"
ルカの福音書 6章38節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

与えるときに、与えられます。与えられたら、与えなさい、ではないんですね。余裕があれば与える、というのではなく、逆です。与えるからこそ、気前よく与えられ、結果的に余裕が生まれてくるのです。

また、この言葉にも注目してください。

"イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」"
マルコの福音書 9章35節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

仕えなさい、そうすれば仕えられます。という意味です。仕える人にこそ、人々は仕えるようになっていくのです。

なぜ、このような現象がおこるのでしょうか。恐らく、次の聖句がそれを教えてくれます。

"私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。"
ヨハネの手紙 第一 4章19節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

なぜ私たちクリスチャンは神様を愛しているのでしょうか?それは、まず神様が私たちを愛していることを示してくださったからです。つまり、神様がまず模範を示してくださったからなのです。

例えば、あなたが大工の仕事を始めたとします。大工初日。家の建て方、道具の使い方、1日のスケジュールなど、何も知りません。しかし、大工の大将がまず「こうやるんだよ」と実際にやっていることをレクチャーして見せてくれます。そうすることで、だんだんと仕事のイメージがわかってきます。その内に、一人でもできるようになっていきます。

それと同じように、私たちクリスチャンは、イエスキリストの十字架の死による愛と赦しによって、神様がどれだけ私たちを愛しておられるかを見せてくださいました。そして、日々、神様の恵みに生かされているのです。このようにして、私たちは愛することを学んでいるのです。

では、話を戻して、なぜ与える時に与えられるのでしょうか?また、なぜ仕える時に、仕えられるのでしょうか?それは、あなたが模範を示したからです。あなたが環境を変えたからです。あなたがその場の雰囲気を変え、また人々の心を変える愛を行ったからです。あなたが変わったから、周りも変わったのです。あなた一人がまず与えるようになったので、周りも与える者に変えられていったのです。

まず神から恵みを受け取るところから始める

この愛のムーブメントはイエスキリストから始まっています。イエスキリストが、私たちを友と呼んでくださり、友のために命を捨てるという世界で一番大きな愛を示してくださいました。この愛に感動し、突き動かされた人々。このキリストの十字架の愛と復活の希望を信じ、聖霊を受けた人々。その人たちから、今に至るまで、愛のムーブメントは受け継がれ続けてきました。

この聖句を読んでください。

"この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。"
ローマ人への手紙 5章5節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

私たちクリスチャンには聖霊が与えられています。この聖霊が、私たちに日々、神の愛を注ぎ続けてくださっています。聖霊は、私たちにイエスキリストの愛のことば、十字架による罪の赦しを味わわせてくださったり、日々の生活の中で祈りのこたえを体験させてくださったり、すべてのことを益としてくださったりと、私たちに良いもので満たしてくださいます。そのようにして、私たちに愛することとは何かを教えてくださっています。

しかし、その愛を台無しにするものがあります。それが、不平不満です。不平不満は、神様がしてくださった良いことのすべてを否定するものです。せっかく温かいスープを用意してくれた母親に「こんなまずいものいらない!」といって、飲みもせず、愛を感じることもしないようなものです。

もし、私たちが神の愛を受け取り、感じたいと思うのであれば、ただ一つ、これをするに限ります。それが、「感謝」です。

"何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。"
ピリピ人への手紙 4章6~7節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

どんな祈りも、願いも、まず感謝することが不可欠です。神様が良いものを与えてくださらない日は、1日たりともありません。ですから、探してみてください。今日1日何があったかを振り返り、小さいと思えることでさえも、寝る前に思い返し、神様に感謝してください。

何も良いことが見つからなかったとしたら、最悪だと思ったことを感謝してください。今、それが自分を悲しめていることだとしても、その悲しみがやがてあなたに大いなる祝福をもたらすタネになります。それは、神様は私たち神の子に関わることすべてを必ず益としてくださると、聖書に約束されているからです。必ず、それは良いことに変わっていきます。だから、感謝してください。

感謝しましょう。神様はすでに、私たちに手をさしのばしてくださっています。それは、私たちが生まれる前から、今に至るまで、一度たりとも降ろされることのなかった手です。神様があなたに愛を注ぐ準備はすでにできています。今霊の目を開いて、神様があなたを温かな目で見つめている、その眼差しを見つめてください。この愛の眼差しはイエスキリストの十字架で示されています。十字架は、罪深いあなたが、まだ神を愛してもいないときから、あなたのために成された御業です。

今日、今この瞬間、この温かい手を握ってください。祈りの中で「神様、あなたが今まで私に愛の手を差し伸べてくださっていたことを感謝します。今受け取ります。また、私があなたの愛を拒んできたことを赦してください。」と神様に申し上げてください。ここからすべてが変わります。

まとめ

私たちは人が変わってほしいと願います。しかし、まず私たちが変わらなくてはなりません。私たちが変わる時、周りも変わっていきます。そして、世界に秩序を、すなわち神の国をつくるものになっていきます。

しかし、私たちは自分の力では変わることができません。愛を知らない者は、愛することができないからです。しかし、私たちクリスチャンには聖霊が与えられています。このお方が、イエスキリストの示された模範を思い出させてくださり、日々の中で神様の愛を注ぎ続けてくださっています。この愛を感謝して受け取る中で、私たちは、イエスキリストのように、隣人を愛し、与え、仕える者へと変えられていきます。

今日、私から変わっていきましょう。いや、神様の愛を受け取って、変えられていきましょう。

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