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2007.03.01. 原稿、日立健太

ご紹介に預かりました、日立です。

先日、祖父が死にました。

世間一般、俗世風俗的に晴れの日と言われるような、こんな日にこんな話をするべきではないんでしょうけど、死んだんです。

死因は、聞きませんでした。
仲がいい訳ではなかったし、聞いていい気分なものでもないと思ったので。ただ見せてもらった顔が整っていたので変な死に方ではなかったと思います。

祖父との思い出はありません。
私が生まれるずっと昔に煙になってどこかへ行ってしまった人らしく、そもそも自分に祖父がいることすら知らせを受けたとき初めて知りました。
ですから、祖父に抱いた第一印象は、可哀そうだな、でした。

祖父は、絶縁されたその後およそ家族と呼べるような関係も特になかったらしく、我々親族連中に役所の知らせが飛んできたらしいです。

しかしそれを教えてくれた息子にあたる親父は憤りを募らせていたし、おふくろもいい顔はしませんでした。
誰一人祖父の死を悲しんではいないので、私は可哀そうだと思ったのです。

今の自分、未来の自分に息子や娘がいたとして、この祖父のような扱いを受けるとしたなら絶対に嫌です。

自分が嫌がることを相手にしてはいけないというのを教えてくれたのは、まぎれもなく親父であり、その教えだけは守っていました。

ですから私は一人で祖母の家に向かいました。
祖母なら、縁を切った身とはいえ、祖父の死のことを悲しんだりするんじゃないだろうかと思ったからです。
幸い近くに住んでいるので、両親の知らせより早く着くことができました。

結論から言うと、祖母は私の言葉に耳を傾けて、しまいには涙をこぼしていました。やっと一人悲しんだのです。

祖母曰く、祖父が若いころはとても仕事熱心でだとか、ロマンチストでだとか、祖父のことをいろいろ教えてくれました。
しかし、話すのは若いころの話ばかりで、私は戸惑っていました。
もしかして、何十年も前に絶縁したとは聞かされていましたが、祖父が絶縁されてしまったのはまだ若いうちだったんじゃないか。
だから祖母は、若いころの話しかできないんじゃないか。
募る疑問にしびれを切らして、私はなぜ、いつ、絶縁してしまったのかを聞きました。

すぐに、『聞いてしまった』という感覚に変わりました。
すする音は止み、くしゃくしゃだった祖母の顔は既になく、敵を睨むような眼が、私のほうへと向けられました。

少しの間があって、思い直したようでその表情はまた悲しみに染まりました。

ごめんね、それは言えないんだよ、と優しく言われても、私にはあの顔が忘れられませんでした。今までの祖母はそこにもういないような気がしました。

祖母も多分、祖父の死を悲しんでいませんでした。

私のせいで祖父は、本当に誰からも悲しまれなくなったのです。

その次の、次の日、両親に頼まれて祖父が先週まで住んでいたというアパートに行きました。大家さんに事情を説明したり、貴重品を回収したりなど、業者に頼んではいろいろお金がかかるからだそうです。

電車を1本乗り換えて、県境あたりの知らない町で降りました。
電車が通っているとはいえ、いわゆる山間部に位置し、駅舎から出た先の広場の道路は、タクシーが一、二台止まっているくらいで、人の姿がなく、あっけらかん閑散としていました。月並みな表現ですが、そこだけ時間が止られてしまったようだったんです。

鬱屈な曇天の下、メモに書いた住所へ向かいました。
ひび割れたアスファルトと、妙に体の大きい猫、木製の電柱を横目に10分くらい歩いていると、写真に見たアパートが見えてきました。

大家さんに事情を説明し、錆割起こしそうな階段を上って、203号室の鍵を開けました。

入ってすぐの廊下には、何故だか雑誌の類がブックスタンドからぶちまけられていました。
私はそれを踏まないようにように部屋へ向かいました。



そこにいたんだ。

そういう感情が、理解を置き去って飛び出してきたんです。
目に映るのは四畳半、精々鍋を囲むのが限界なちゃぶ台と、座っていたしわの残っている座布団に、抜け毛の目立つそばがらの枕と布団。

ここで、この町で、祖父がどう暮らしていたかなんて知る由もありません。
あるはずがないんですよ。
しかし、まるで祖父だけがその部屋からいなくなってしまったような。

私は、確実な、それでいて実態のない感情で溢れて、
涙が出ました。
何故だか自分でも分かりませんでした。
すぐ止まると思ったけれど、止まりませんでした。

いつもいつでもそこにいる人たちなんかより、あったこともない人間にひどく打ちのめされてしまいました。



すこし落ち着いて、ゴミ袋をもっていろんなものを捨てていっていると、机の上の灰皿に違和感を覚えました。

灰皿の円形の中と、そのふちからはみ出て、白い灰が散らばっていました。
その形はまるで、一本のたばこがその場で全部燃えてしまったような、そんな風体でした。
実際灰を払ってみると、焦げ付いた跡がそこにあったのです。

おかしくないですか?

つまりこれは、たばこの火をつけたまま燃え尽きるまでずっと立てかけていたということになります。

祖父は、一度たばこを置いてすぐ戻ってくる予定だった、しかしそれができなかった。灰すらおそらく私以外誰も触っていません。
少なくとも火を消さずに外出なんて、そうそうあり得ません。

一つ不思議なことが見つかると、次々に違和感がほころんできます。
気が付きませんでしたが、祖父の部屋のタンスはすべて開け放たれていました。
さらに、争った跡などどこにもないと思っていましたが、入り口を、こちら側から見ると見えてきたんです。

この部屋に入って一番最初に見た、ブックスタンドから倒れた雑誌は、すべて玄関のほうにむかっていました。
まるで、引っ張り出された人間がひっかけたかのように。

そこで気が付きました。

だいたいもっと早くから気が付いてもよかったんです。

家族たちは遺体引き取りの書類らしきものを私に見せてくれませんでした。
それはつまり、最初からそんなものなかったんじゃないですか?
業者でなく私に作業を頼んだのも、大家さんが事情を初めて知ったが、私が話したときというのも。

家に戻ってから、父でも母でも、祖母の名前でもない者の通帳を見つけるのはそう造作もないことでした。

………。


祖母の遺体は、遠く、知らない町の知らない山に埋めました。
もう二度と祖父の、昔の話をできないように、海馬のあたりをくぼませ、あわよくば口と鼻を針金で縫い付けました。

両親はその辺の彫刻で殴りつけたら案外すぐ倒れたので、祖母の隣の山で燃やそうとしたけれど、うまく燃えなかったので、今は動物たちが食べてくれるのを待っています。

いえ、たしかに私の家族は嫌いでした。
祖父の気持ちも知らずぞんざいにするなんて、許せないからです。
しかし、かく言う私自身も、今さら祖父の考えていた事を知る由など、どこにだってあるはずはありません。

ですから、死刑と聞いて誇らしく思っています。
18歳になるのがずっと楽しみです。

ここまで連れてきてくださり、ありがとうございました。


その原稿は、日立がどういうつもりか提出期限のとっくに過ぎた卒業文集用に送ってきたものだ。
というか、もう何年も経っている。
3年も受け持っていたのだから、その字が日立のものではないことは容易にわかる。おそらく日立の発言を別の誰かがメモしたものなんだろう。

晴れの日なんて言っているんだから、日立は卒業式の日に、何処でかは知らんがこんなことを言っていたのか。
そうか、日付を見るに日立はもう、


…………。




やっば

まだ中学生です