新しいナラティブとは何か?
日本を代表する人類学者のひとり山極壽一さんが、朝日新聞に寄稿していた。
テーマは「ナラティブ」。
そもそも僕自身が「ナラティブとは何か?」というのがイマイチしっくり来ていない。
山極さんは寄稿の中で、ナラティブをこんな風に表現している。
なるほど、『物語=ストーリー=ナラティブ」と捉えていたけれど、それぞれには微妙な差異があるらしい。
特に「自由に語り継いで内容を変えることができる」というのは、興味深い示唆である。極端なことをいうと、歴史修正主義者のような言動も、ある意味で、ナラティブの強みを取り入れているのかもしれない。
ちょうどこんな記事が毎日新聞一面で紹介されていた。現在進行形で生きているフィリピンの人々によって、「書き換えられた」歴史こそが事実であり、それはナラティブの負の効果とも言えるのではないだろうか。
俄かには信じ難い、このような記事が先ほど発出されていた。日本でも、ナラティブの悪用は決して他人事ではない。
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さて、僕が山極さんの寄稿で一番印象に残ったことは、科学の存続可能性についてだ。
科学を大事にしているはずの研究者・山極さんが「実は私たちがその力の衰えを懸念しているナラティブが『科学』である」と書いている。
500年以上、人間は科学を信じてきたという前提のもとで、昨今のコロナウィルスに対する様々な人間模様を観察するにつけ、山極さんは科学の限界らしきものに直面していると危機感を抱いている。
市井の人々から、政治家まで、実に多くの人たちが「科学的根拠」を基に、コロナウィルスに関する持論を披露していた。
発信者は持論を疑わず、そして発信者のフォロワーが彼らの持論を強化・加担する。周辺にいる僕たちは、何かしらの磁力に吸い込まれていくかのように、どこかの「持論」へと追いやられてしまう。
山極さんは寄稿の最後に「人々の信頼をつなぐナラティブ」という言葉を使っているが、この時代において、「人々の分断を招くナラティブ」こそが急速に力を帯びているような感覚がある。
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繰り返しになるが、「ナラティブとは何か?」に対して、僕は言葉を持っていない。だから、ナラティブを前提とした問いや問題解決に、諸手を挙げて賛成することはできない。
ここに書いたことは、あくまで僕の思考メモに過ぎない。
それでも、山極さんの記した言葉に、それこそ強く引き寄せられるような感覚がある。(これもナラティブなのか?)
2022年も、もうすぐ終わる。かといって、2023年はゼロリセットでスタートすることはない。財源がまともに決まらぬまま防衛費は巨額となり、「日本は貧しくなるのでは?」という懸念が大きく居残ったままだ。
どんなナラティブが、ストーリーが、日本を席巻してしまうのだろう。不安しかないけれど、少なくとも正気は保っていたい。
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