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それは、本当に「かわいそう」なのか。

保育園の後、息子ふたりと家路へと向かう途中、浅瀬の池(のようなところ)に立ち寄った。そこはザリガニや小さな魚が生息していて、春から秋にかけて子どもたちの憩いの場となる。

そこで、5歳の長男がうっかり足を滑らせた。片足が池の中に入り、びっくりした息子が悲しそうな声をあげたのだ。僕は少し遠めで眺めていたのだが、周囲の大人の方が先に心配の声をあげてくれていた。

ありがたいなあと思いつつ、別に溺れているわけではない。

たかが、片足が池の中に入っただけだ。想定外の事態にフリーズした息子の手をとり、濡れた衣服を交換しようとしたときのことだった。

「ああ、かわいそうにねえ」

周囲の大人のひとり、やや高齢の女性が、息子にそんな言葉をかけた。

猛烈な違和感を抱きつつも、まあそういった声掛けもあり得るかなと思い、息子の着替えを優先させていた。しかし彼女は、「かわいそうに、かわいそうに」と、同じ言葉を繰り返した。

いったい、何がかわいそうなのだろうか。

たまらず、「大丈夫ですよ、足が濡れただけなので」と言ったが、その女性はしばらくずっと息子たちの様子を心配そうに眺めていた。ただ池の周りを歩いているだけなのに「ああ、危ないよ」「落ちないでね」。そして長男には「かわいそうにね」と声を掛け続けていた。(繰り返すが、よほど小さな子どもでなければ溺れる心配のない浅い池だ)

本当に心配だったのかもしれないし、もしかしたら、早くその場を立ち去ってほしかったのかもしれない。

後者の可能性はいったん捨てるとして。

池に落ちて、たかが衣服が濡れただけ。その経験が「かわいそう」なことだと本人が認識してしまったら、もう彼は池に近付きたいと思わなくなるのではないだろうか。彼の好奇心は、「かわいそう」という言葉によって減じられ、幼少期に生物を観察するという稀有な機会が永遠に失われてしまう。その方が、僕はよほど「かわいそう」なことだと思う。

帰り道、長男に聞いてみた。

「また、今度池に行ってみる?」

答えは即答でYESだった。良かった、彼の興味は失われていない。

でも、そういうことって、これからも起こり得るのかもしれない。というか僕自身が、無意識でそういったストッパー的な存在になることだって、十分にあるだろう。

「何かをやってみる」ことにはリスクや危険がつきものだ。もちろん命にかかわるようなリスクは犯してはいけないけれど、安易に、「危ないから」という理由でその対象から遠ざけてはいけない。

チャレンジしてほしいなら、相応のリスクを想定しつつ、向き合ってもらうようにすべきだろう。それはきっとプライスレス、金銭では代えられない、親のスタンスが試されるものに違いない。

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