才能とは、実に罪深い(映画「ミッドナイトスワン」を観て)
村上春樹さんの『ノルウェイの森』が2010年に映画化されたとき、2時間という枠が無慈悲なまでに固定化されていることに衝撃を受けた。
ワタナベと緑の父親が病室で意思疎通を図る場面でお互いの距離を縮めるきっかけになった「キュウリ」がまるっとカットされていた。
映画そのものは僕は面白かったのだが、その大胆な編集に驚いたのは確かで。編集というものを意識したのも、このときからだったように思う。
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もちろん編集とは、映画のみに適用される作業ではない。
だが映画における編集の重要度は、他の表現方法を圧倒的に凌ぐ。
ストーリー、映像、音楽、文字、役者の演技、舞台装置など、編集に関わる要素が多岐にわたるからだ。どれか一つでも疎かになれば作品は台無しになる。
一方で、編集の結果、輝きが増すアウトプットになる稀有な作品が生まれることもまた事実だ。映画「ミッドナイトスワン」とは、編集が織り成した最高の作品と断言できる。
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繊細な演技で、感情の機微を表現する役者
まず、全ての役者が素晴らしかった。
主人公の凪沙を演じた草彅剛さんは、上映当時、トランスジェンダー役を務めることで話題になった。東京のニューハーフショークラブで働きつつも、実家・広島県の両親には自らの境遇のことを隠している。他人に対して、社会に対して距離をとりながら生き抜こうとする演技は圧巻だった。
服部樹咲さん演じる一果も素晴らしかったが、敢えてもう一人挙げるなら、凪沙の同僚の瑞貴を演じた田中俊介さんを推したい。
騙され、盲信し、諦め、感情を爆発させる。そのどれも正直なところ共感できる言動ではない。しかし彼女が画面に映ると強烈に引き込まれていく。人間の暗部を思い切り開示していて心が痛くなる。
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ギリギリで描かれない個々の物語
「なんで彼らはこんな行動をしたのだろう?」というシーンがあまりに多かった。
作品へのマイナス評価となってもおかしくないのだが、登場人物の感情の起伏の大きさとも呼応し、人生のはかなさや唐突感にも繋がっている。カオスティックなエネルギーになっていて、映画全体の独特な美しさでもあるような気がしている。
一果の同級生のりんが、親族の結婚式でダンスを披露するシーンは、何とも言えない自己顕示欲があった。祝いの席で、祝福されたい気持ちを、得意だったバレエを通じて表現する。ただその前後の感覚や、才能に恵まれた一果への複雑な想いなどは映画ではあまり描かれていない。
描かれないことで、解釈の余白・余韻を残す。
そのギリギリが奇跡的に許容されるレベルで表現されている。その編集の凄みには唸るしかない。(なお映画監督は内田英治さん。昨年Netflixで話題になった「全裸監督」を手掛けた人です)
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「生きる、死ぬ」という普遍性を描く
草彅剛さん演じる主人公の凪沙、 服部樹咲さん演じる一果は対照的な存在だ。劇中では「私たちみたいなのは〜〜」という発言もあるが、残酷なまでに、二人の生き方(の方向性)は中盤以降で決裂していく。
ふと生きる理由を考えてしまうと、見出せないときに人は絶望を感じてしまう。一果にとって生きる理由は「踊ること」だった。それが自他ともに認められる理由で、あまりに求心力があり過ぎるものだった。
「残酷なまでに」と書いたのは、そんな人が間近にいると、息ができなくなるほど自らの無力感に気付いてしまうからだ。実際の生死とは離れて、概念としての生死はあり得るわけで。
「生きながら死ぬ」みたいな感覚は、観る者がなるべく心の奥底に隠していたい既視感ではないだろうか。才能とは、実に罪深い。
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映画「ミッドナイトスワン」は、現在、Amazon Prime Videoの有料レンタルで配信中だ。6月はプライド月間(LGBTQ+の権利について啓発を促す時期)ということもあり、タイミング的にもぜひ観ていただきたい。
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