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#本なれ 0004 大田堯『教育とは何か』:戦前戦後を生きた教育研究者の本当の問いとは?

このラジオを収録したのは4月5日、日曜日の夜。この日東京都内では新たに143人の感染者数が発覚、コロナウィルス感染拡大が止まる気配はありませんでした。それでもなお政府は緊急事態宣言に踏み出しておらず、僕は漫然とした苛立ちを募らせていました。(ようやく週明けに発令されました)

コロナウィルスに関する苛立ちや恐怖は避け難いものです。政府や自治体だけでなく、会社に対して、批評家に対して、マスコミに対して、SNSに対して、著名人に対して、行列に並んでいる人たちに対して。散歩のため外出している市井の人たちにさえ腹立たしい思いを持ってしまいます。

正直僕は、コロナウィルスが怖い。被害者になることも怖いし、大切な人を(知らず知らず)感染させる加害者になることも怖い。気が小さいと思われるかもしれませんが、毎日コロナウィルスの夢も見ています。成熟した大人になったつもりでしたが、完全にセルフコントロールする術は身に付けられていないようです。長期戦を想定しながら、メンタルが壊滅的に崩壊してしないことに努めるので精一杯です。

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自己弁護するわけではないですが、コロナウィルスに対して苛立ちや恐怖を感じるのは健全なことのように思います。

正体が分からないものに対して不安を感じるのは、人間の自然な感情です。子どもはお化けが怖い。もちろん、お化けの正体を知っている私たちは、もはやお化けは怖くないわけですが、起点は「感情の揺れ」でした。感性と言っても差し支えないかもしれません。ちゃんと揺れるかどうか──過敏に揺れ過ぎる必要はありませんが──、正常な感覚かどうかの試金石でもあるように感じます。

コロナウィルスのことは、専門家でさえ、まだ分からないことも多いようです。もちろん事実も判明してきてはいるけれども、それをどれくらいの緊急性 / 重要性をつけて対処していくべきか、誰も正解を持っていません(経済なのか人命なのか、という二者択一の議論では済まされません)。政府の見立て通り、1ヶ月後に本当にピークダウンするのかは分かりません。あまりに変数が多過ぎます。

怖がることを放棄する(安直に楽観視する)というのは、情報感度を極端に下げることにも繋がります。「風邪と変わらない」「基礎疾患のある高齢者が重症化する」といった当初の見解を鵜呑みにするのは、症例がアップデートされている中では鈍感の部類に入るでしょう。不要不急の外出自粛が強く呼び掛けられている中、適度に苛立ちや恐怖を抱えつつ「そと」に向き合うことが無難だと思います。今アウトサイダーである必要はありません。

生き抜いて、また、みんなで楽しく集まれることを楽しみにしています。

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第4回の放送では大田堯『教育とは何か』を取り上げました。

真正面からの問いに対して「教えて育てること」だろうと答える人も多いのではないかと思いますが、大田さんの考えは少し違います。

教育ということばについて、私たちを長年とらえてきた観念は、何かを相手に教えること(説得)がまず先行しています。そして、相手の内面から“わきまえる”力、分別を引き出し、育てるということが、教えることに従属してしまう傾向があります。ここがまさに問題なのであって、「教」と「育」とを逆転させるような発想に立ちかえることが必要であると思います。
(大田堯『教育とは何か』P117より引用、太字は私)

教育は「education」と英訳されていますが、その言葉の成り立ちを分解すると「e=ex(外に)+duc(導く)=資質を外に導く」という意味が込められています。その語源において「教える」という概念はどこにもありません。もちろん英英辞典を引くと「teach」という側面は語られていますが、本来的には「教える」はあくまで手段であると捉えていたのかもしれません。

・教育は教えるもの
・educationは引き出すもの

矢印の置き方が正反対であることが分かります。それを念頭に置くと、自然と「教師」「生徒」の役割も変わるでしょう。

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大田さんの著書を読んだのは、僕が教育の仕事をしていたときでした。流行の教育論に止まらず、生物の進化やムラのあり方など、教育に関わる前提のことから丁寧に描かれていたことに驚きました。教育者とは本来、哲学者であり、知性に優れた人でなければならないと強く自戒した記憶があります。

再読し、改めて30年前の著書より学ぶのは「教育とはかくあるべき」という“べき論”ではない点です。戦前戦後を生きた教育研究者が投げ掛ける本当の問いとは何だろうか、ということを考えながら読みました

そのヒントは本文にも描かれています。

(科学技術の進歩の弊害を例示した上で)それは言いなおすと、「どう生きるか」という人間にとってもっとも本質的な問いが、衰弱するということでもあるように思われます。「どう生きるか」の問いは、他人が助けたり、励ましたりすることはできますが、結局は本人自身が答えを決めるほかはないものであることは言うまでもありません。そのうえ、この「どう生きるか」の問いは、人間にとっては生涯にわたる問いであって、これで結論が出たというものでもないのです。「どう生きるか」の問いは、いつも「ふり出し」にもどって考えることにつながっています
(大田堯『教育とは何か』P74より引用、太字は私)

何かを教え、理解してもらうことはゴールではありません。むしろ最終地点で「モヤモヤ」するものを抱えてしまうことになるかもしれない。その「モヤモヤ」を引き出すこと / 引き出し続けることが教師の役割ではないでしょうか。

「教育とは何か」という問いを礎に、「人生とは何か」「人間とは何か」「考えるとは何か」というアナザーイシューを、故人は未来に託したのかもしれません。

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Runtripの大森さんが、共通の知り合いである木幡さんのことをこんな風に語っていました。「1年ベンチャーにいたくらいで人生の答えは見つからない」というのは、とても優しい言葉だ。35歳の今の僕なら、少しだけ理解できます。

「どう生きるか」の問いは、いつも「ふり出し」にもどって考えること。そんな優しい激励を胸に、僕はこれからも前を向いて歩いていきたい。

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もし興味があれば、ぜひ各種Podcastから聴いてみてください!

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さて次回の放送は4/16(木)16時頃〜になります。カミュ『ペスト』について、たっぷり語りますので、どうぞ楽しみにしていてください。

また双方向にラジオもやっていきたいので、皆さんからのリクエストもお待ちしています。ぜひぜひ以下のbosyuより応募ください!

それでは、また来週!


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