憲法はいくらでも「改正」できるの?
憲法を改正するということ
近頃何かと話題の安倍前首相が、改めて憲法改正についての意欲を述べたということが報道されましたが、憲法を改正するとは、そもそもどういうことなのでしょうか。そして憲法は、手続さえ踏めば、どこまでも改正できるものなのでしょうか。
10月27日の記事で、憲法の改正の「限界」の論点についても触れましたが、少々全体が長ったらしく読みづらかったようですので、ここで簡潔に「憲法はいくらでも『改正』できるのか」という論点を改めて説明してみましょう。
憲法改正は、憲法自身に従わなければならない
ここでまず、「憲法の改正」という言葉を改めて定義しておきましょう。憲法を改正するということは、憲法をただ単に変えるというのではなく、憲法を、憲法自身の規定に従って変えるということです。
言い換えれば、憲法の決めたルールを守りながら憲法を変えるのが、憲法改正です。
例えば、国会の単なる過半数の決議や内閣の閣議決定だけで憲法を変える(と宣言する)のは、果たしてどうでしょうか。
憲法が定める手続のルール(96条)は、衆議院と参議院の2/3以上の賛成による発議と、国民投票による承認ですから、このルールに従わずに、単なる国会の過半数や閣議決定だけで「憲法を変えた」と称しても、それは憲法改正ではないということになります。
つまり若干ややこしい言い方にはなりますが、憲法改正も、憲法自身のルールに従わなければならないわけです。
憲法はどこまで改正できるのか?
そうなると次に、この改正手続に従いさえすれば、どこまで憲法の内容を変えたとしても、それは「憲法の改正」と呼べるのかという問題が出てきます。
例えば、国民の基本的人権を剥奪するような条文を憲法に入れても、衆議院と参議院で2/3以上の多数で発議して、国民投票で承認さえすれば、それは「憲法の改正」といえるのでしょうか。
そうは言えません。国民の基本的人権を剥奪するような変更は、これはまた憲法のルールに反していることになるからです。例えば第97条を見てみましょう。
第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
この条文を見れば、現在の日本国憲法が保障する基本的人権は、「侵すことのできない永久の権利」とされていますから、その永久不可侵であるはずの国民の基本的人権を剥奪するような変更をするのは、憲法自身のルールに反していることになります。
憲法を改正するなら、96条のルール(改正手続。国会の2/3の発議と国民投票)だけでなく、97条のルール(人権の永久不可侵)にも従わなければならないのです。
憲法に反する憲法の変更はもはや「改正」ではない
何度も繰り返して説明したように、憲法改正とは、憲法自身のルールに従って憲法を変えることですから、基本的人権を剥奪するような変更は、そもそも「憲法の改正」ではなく、あえていうなら「反逆」「謀反」「憲法の破壊」とでもいうべきであり、多少なりとも前向きな呼称を使うなら「革命」ということになるでしょう。
これが憲法学でいうところの「憲法改正の限界」という議論ですが、実は、大日本帝国憲法から日本国憲法に変わったときにも、この意味で憲法改正の限界を超え、旧憲法が破壊されて「革命」が起こったと考えて良いのではないかという問題が出てきます。
大日本帝国憲法では、天皇が永久に統治権を持ち、法律の範囲で臣民の権利も制限可能とされていたのですから、国民主権でなおかつ基本的人権不可侵を定める日本国憲法に変わったということは、大日本帝国憲法の側から見れば、まさしく憲法改正の限界を超えて、「革命」が起こったと考えられるからです。(いわゆる「八月革命」もこれに関係する議論です。)
この点は、先の記事とあわせて、私の下記の著書の第4章もあわせてお読みください。
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