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1945年8月に日本で革命があった?

 八月革命説

 憲法の議論で「八月革命」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは1945年8月に日本に「革命」が起こったという説です。(★以下、憲法の教科書で『八月革命』説についての説明を承知している方は、お読みいただく必要はありません。)

 これに対しては「日本は1945年8月に第二次世界大戦で負けて、確かに大きな変動を経験したが、別に革命なんか起こっていないではないか?」という反応が、当然出てくると思います。

 しかし、ここでいう「革命」という単語は、一般に使われているような意味、つまり反政府勢力や群衆が武装蜂起して政権を倒すような意味での「革命」ではなく、憲法の根本原理が変更されたという意味で使われています。

憲法の改正か、革命か?

 ある国の憲法が一定の手続を踏んで変わる場合、普通は「憲法改正」と呼ぶのが一般的なので、わざわざ「革命」という大げさな言葉を使って呼ばなくても良いように思えるかも知れません。

 しかし憲法学の世界では、あまりにも憲法の変更の度合いが大きく、憲法の根本的な原理が変更されたといえる場合には、もはや「改正」ではなく、もとの憲法を破壊して新たな憲法を制定するのと同じだと考えるのが有力です。このような状況は、「革命」と呼んで良いでしょう。

憲法の改正には限界があるのか?

 言い換えると、まずは憲法の改正には限界があると考えたうえで、その限界を超えて憲法が大きく変わった場合は、元の憲法が「改正」されたのではなく、「革命」が起こって新しい憲法が制定されたのと同じに考えるということです。

 そこで、この話をする前段階として、まず「そもそも憲法の改正に限界があるかどうか」の議論を整理してみましょう。

憲法を「改正」でどこまで変更できるの?

 大日本帝国憲法も日本国憲法も含め、通常、憲法というものには改正手続きの条項があります。国や時代によって方法はいろいろで、国民投票を行う例もあれば、議会だけで決める例もありますが、いずれにしても何らかの民意を反映した議決が行われるのが通常でしょう。

 それでは、この改正の手続にのっとりさえすれば、いくらでも憲法は「改正」して良いのでしょうか。言い換えると、この手続にのっとって憲法を変更すれば、どれほど変更が大きなものであっても、単なる「改正」に過ぎないのでしょうか。

 極端な想定例として、日本で何かの宗教を国教として、国民に信仰を義務づけるような条項を憲法に設けたり、主権者を国民から天皇や何らかの独裁者にするような条文を作ったりすることも、日本国憲法の改正手続を使って、国会で2/3以上で改正を発議し国民投票で承認さえすれば、単なる「改正」ということになるのでしょうか。 

憲法改正限界説と無限界説

 これについては、「そんなのは言葉使いの問題だ、改正は改正と呼べばよい。」とか「良くない改正かも知れないが、改正の手続で変えたのだから、改正に違いはない」という考え方もありうるでしょう。
 しかしそうは考えず、憲法改正というものには限界があって、その限界を超えてしまった変更は「改正」ではなく「革命」だ、という考え方が、憲法改正限界説なのです。

 つまり憲法改正無限界説であれば、どのように内容を変更しても、決められた憲法改正の手続を使ってさえいればすべて「改正」でしかないのに対して、憲法改正限界説によれば、憲法の変更には「改正」には限界があるので、その限界を超えて憲法が変わったら、たとえ手続上は改正であっても「革命」と呼ぶのが妥当ということになります。

 そこで次に、この憲法改正限界説をもう少し詳しく検討してみましょう。
やや単純化していうと、この立場では、改正を許さないような憲法の根本的原理が変更された時に、この改正の限界を超えて革命が起こったと考えるのです。

現在の日本国憲法で改正が許されない部分とは?

 まず、現在の日本国憲法には、改正を許さない根本原理はあるのでしょうか。
 これはいろいろな説明の仕方が可能でしょうが、厳密な理論の話はここでは避けて、端的に条文を見てみましょう。

国民主権

まず前文です。

 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 これは国民主権の原理を述べたものです。最後に「われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」とあります。国民主権に反する一切の憲法、法令及び詔勅が排除されるのですから、法律だけでなく憲法自身も国民主権には反してはならないということになります。

 日本国憲法は国民主権の原理によって成り立っているのですから、その憲法自身の持つ改正手続によって、国民主権を例えば天皇主権に変えることは論理矛盾であり、改正によってこの変更を行うことはできない、と考えるわけです。それでも現実問題として政治の成り行きによって変わってしまった場合は、それは今の憲法とは連続性が断ち切られることになり、それは「改正」ではなく「革命」と呼ぶのがふさわしいということになります。

(★後で述べますが、国民主権を例えば天皇主権に変えることが革命なら、その逆に変えることも革命ということになるはずです。)

基本的人権の尊重

次に、第11条を見てみましょう。

第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

「この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利」だと書いてあります。この表現からすると、改正手続で変更することはまったく想定されていないと考えられます。つまり、憲法改正によって基本的人権を廃止することもできないというわけです。

 細かい議論は省きますが、少なくとも「国民主権」「基本的人権」を廃止するような根本的原理の変更は、「改正」ではなく「革命」と呼ぶべきだということになります。

1946年に帝国憲法が日本国憲法に変わったのは「改正」で済む話なのか?

そこで、最初の議論に戻ってみましょう。
1945年8月、日本にこの意味での「革命」は起こったのでしょうか。

 ここで少し時計の針を進めて、1946年10月に飛んでみましょう。この時、「帝国憲法改正案」が最後の帝国議会で可決されたのでした。もともと帝国憲法を「改正」するためには、帝国議会での衆議院と貴族院の両方による可決が必要(国民投票の規定はない)だったのです。(この時の衆議院は、戦後の日本史上初めての男女平等の普通選挙で議員が選ばれたことに注意してください。)

 これは、これまで述べてきた意味での「改正」と言えるのでしょうか。
大日本帝国憲法では、万世一系の天皇が統治し、国民(臣民)は主権者ではありませんでした。日本国憲法では、先ほど述べたように、主権者は国民であり、「国政の権威は(天皇ではなく)国民に由来」するとされていますが、大日本帝国憲法では、国政の権威は天皇に由来するものであり、その天皇は天照大神の意思によって代々日本を統治するとされていたのです。

第1条 大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
第4条 天皇は国の元首にして統治権を総覧しこの憲法の条規によりこれを行う

 そうなると、この大日本帝国憲法を変更して、主権者が天皇から国民になり、さらに天皇の地位が天照大神の意思ではなく国民の総意に基づくようになるという事態は、大日本帝国憲法が許容しないはずの根本的原理の変更ということになるので、憲法改正の限界を超えるから、「改正」ではなく、いわば「革命」にあたるということになります。

帝国議会が勝手に天皇主権を変えられるのか?

 そうなると、1946年10月に帝国議会が可決して日本国憲法の形が決まった時点で、「革命」が起こったのでしょうか。しかし大日本帝国憲法によれば、立法権はあくまで天皇に帰属する建前であり、帝国議会は、天皇の立法権を協賛するための機関です。大日本帝国憲法第5条を見てみましょう。

第5条 天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う

 このように、天皇を協賛するために存在していたはずの帝国議会が、天皇の持つ主権を国民に移したり、天皇を「統治権の総覧者」から国政の権能を持たない「象徴」に戻すという「革命」を起こすことなどできるのでしょうか。

 そう考えると論理的には説明がむずかしくなってきます。「革命」が起こったのだとすれば、1946年10月よりももっと前の時点と考えた方が、理屈が通るのではないでしょうか。一体どのように説明すれば良いのでしょうか。

ポツダム宣言受諾時点で革命が起こったのでは?

 ここで八月革命説が出てきます。これは、日本国憲法が成立するより前の1945年8月の時点で、実際は既に天皇から国民に主権が移っており、帝国憲法の改正の手続を使ったのは単なる形式だけで、実際は既に国民主権の世界になっていたと説明するのです。

 戦争末期、日本政府は、1945年8月に連合国によるポツダム宣言を受諾したのですが、この12項は
「…日本国国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は直に日本国より撤収せられるべし」
というものでした。
「日本国民が自由に表明した意思に従った政府が樹立される」ということは、まさに国民主権ということにほかなりません。少なくとも大日本帝国憲法の理念としては、統治権は天皇のものであって、「日本国民が自由に表明した意思」で政府が作られるとは想定していなかったからです。

 八月革命説は、このポツダム宣言を日本が受諾した時点で、主権が天皇から国民に移った、と解釈するのです。大日本帝国憲法はこの時点ではまだ残っていますが、主権者が変わるということは、まさに「革命」にほかなりません。まさに八月に静かな革命が起こったというわけです。

 大日本帝国憲法はその1945年8月時点ではまだ廃止されたわけではありませんが、国民主権などに反する範囲の部分については効力を失い、形式上は改正手続を利用して、主権者になった国民が議員を選んだ帝国議会で審議されて、新たな日本国憲法が制定されたという説です。

憲法の根本原理が変わったから、「改正」では済まない

 この日本国憲法は、先ほど見たように、大日本帝国憲法とは根本的な原理が違っていますから、手続上は「改正」であっても、実際は改正の限界を超えているということで、既に起こった革命に基づいて、帝国憲法とは原理が切断された新たな憲法が制定されたということになるわけです。

 繰り返しますが、八月革命というのは、現実の日本社会で、1945年8月に武装蜂起や内乱などが起こって政府が交代するような、政治的な意味での「革命」が行われたという意味ではありません。憲法の基本的原理がその時点で変更され、いわば切断されたと考える、ということです。

革命とは、歴史的事実ではなく我々の態度・見方の問題

 歴史的事実としては、日本の政治社会の営みが突然1945年8月に断ち切られて入れ替わったりしたはずはありません。また戦前から戦後まで引き継がれた要素も多々あるでしょう。
 そうだとしても、1945年8月をもって、国家の基本法である憲法の基本原理が切断され、新たなものになり、革命が行われたと考えるのが八月革命説なのです。
 そして憲法の基本原理が切断され、国民主権や基本的人権尊重の原理に基づくものとなり、もはや後戻りが許されないと考えることでもあります。(先ほど触れましたが、日本国憲法の「国民主権」と「基本的人権尊重」の原理は、改正を許さないものとされていることを思い出してください。)

 この意味で、八月革命説とは、歴史的事実の問題ではなく、我々の憲法や国家に対する態度の問題と言うこともできるでしょう。

 この記事の議論は、拙著『13歳からの天皇制』(かもがわ出版)の第3章、第4章、第5章もご参照ください。↓


 

 (★最後に付け加えますと、ここでは触れる余裕はありませんでしたが、この意味での憲法の基本的原理の変更が、もっと後の時期で起こった(例えば日本国憲法施行時とか、講和条約後の日本独立時点)と考える説もあります。)


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