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日本学術会議問題での政府の説明責任について

学術会議の任命拒否

 日本学術会議の任命拒否問題については、これまで2回、記事をnoteで書きました。


 本稿を書いている時点で事態はほとんど進展していませんが、いずれにしても菅政権は、6名の任命を拒んだ理由を説明する必要があります。

 例えば「日本学術会議は軍事研究に否定的であり、この6名も軍事研究に反対しそうだから政府は拒否したのだ」と推測する声があります。また一方では、著作や研究の傾向と関係があるのではないかと想像する意見もあるでしょう。

政策判断に基づく任命拒否が可能だと仮定しても・・・

 以前述べたように、私は、日本学術会議法の趣旨からも、また過去の法改正の前提となった国会答弁からも、内閣総理大臣が自分の政策目的で自由には学術会議の会員の任命を拒否することはできないと考えていますが(詳しい理由は以前の記事参照)、菅政権の見解はそうではないようで、総理は政策上の都合で、自由に会員の任命や拒否を判断して良いと考えているようです。

 仮に後者の考え方に立って検討した場合、菅政権が6名を任命拒否したということは、その任命を拒否することによって、政権として何らかの政策を推進させようとしたということになります。
  そうだとすれば菅政権は、任命拒否によってどのような政策を推進しようとしているのかについて説明しなければならないでしょう。

政策的観点で拒否したのなら、なおさらその政策の説明が必要

 例えば先に述べたように「6名は軍事研究に反対しそうだから拒否した」ということであれば、政府として日本学術会議に軍事研究への協力を求めるか、少なくとも反対はしてもらいたくない、という考えがあることになりますし、さらに軍事研究を国として一層推進したいという方針だと言うことになるでしょう。

 また全然別な話になりますが、6名のうち宇野重規教授は『民主主義とは何か』という著作をこの10月に発表していますが、たとえば、仮にそれが任命拒否の理由だというのであれば、民主主義についての議論が広まるのを政府は嫌がり、それにブレーキをかける政策をしようとしているということになります。(一つの喩え話ですが)


 いずれにしても、政府はそのような政策の観点からの説明を明確にするべきでしょう。そのことについて国民が次の選挙で支持しようとしまいと、それは国民の選択です。そして国民が判断し選択するには、必要な説明を受けなければなりません。

民主主義とは「次の選挙まで政府に丸投げ可」ということではない

 「(間接的とはいえ国会経由で)国民の信任を得て職についている総理大臣が人事権を行使するのが、民主主義の原則からいって当然だ」という人がいますが、民主主義というのは、国民に支持されて職についた総理大臣が次の選挙まで何をやってもいいということではなく、その総理大臣が常に国民(直接的には国会)に対して説明責任を負い、主権者である国民に判断材料を与え続けなければならないということを前提としているのです。

日本国憲法 66条3項
内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。

内閣法 1項2項 
内閣は、行政権の行使について、全国民を代表する議員からなる国会に対し連帯して責任を負う。

 繰り返しますと、何らかの政策的意図のために6名を任命しなかったのですから、その理由を説明し、どういう政策的意図があるのかを国会を通じて、国民に対して明らかにするべきでしょう。

会社の人事に喩えるのはまったくの見当違い

 これに対して「会社でも人事の理由はいちいち部下に説明しないだろう」という人がいますが、こういう会社人事の比喩を持ち出すこと自体、根本的な勘違いをしていると言わなければなりません。菅総理大臣は国民の上司ではないし、国民は菅総理大臣の部下ではないのです。

 あくまでも主権者は国民であって、菅総理大臣は、主権者である国民が選んだ国会議員からなる国会から選ばれて地位につき、法律に従って職務を遂行することを認められた立場なのです。

 



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