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コロナウイルス危機と憲法(2)

現在も既に行われている「私権の制限」

 さて前回の「コロナウイルス危機と憲法(1)」では、そもそも現在の憲法でも「私権の制限」は不可能というわけではないどころか、現に環境汚染防止や労災防止など様々な局面で、法律により「私権の制限」が既に行われていることを示しました。ここでいう「私権の制限」とか「人権・自由の制限」は、主に営業や移動の制限を念頭に置いています。

具体的に問題となる二つの論点とは?

 次に、コロナウイルスや自然災害のような緊急事態への対応として、具体的にどのようなことが法律面で問題となるか、もう少し立ち入って考えてみましょう。

 これは大きく言って二つに分けることができると思われます。すなわち

  (A)緊急時に国民の生命・安全を守るためにどのような対策をしなければならないか
  (B)緊急時に国家の意思決定のあり方をどうするか

という二つの次元の問題です。

 前回触れた「私権の制限」とか、コロナ危機でいう「ロックアウトはどうするか」などと言われているのは、(A)の問題です。
これに対して「ピンチの時には、政府が迅速に意思決定をして施策を決められるようにしなければならない」などというのは、(B)の問題ということになります。

 この二つの問題についてもう少し憲法に関係する形で突っ込んでいうと

  (A)緊急時に国民の生命・安全を守る対策をするため、憲法によって保障された国民の権利をどの程度制限するか
  (B)国家の統治機構は憲法で定められているが、緊急時に国家の意思決定を確保できるようにするにはどうすれば良いか

という言い方ができるでしょう。

論点(A):緊急時の国民の権利の制限の問題

まず(A)の点について。

 「今の憲法では緊急でやむを得ない場合にも、私権の制限ができない。憲法改正をしなければ」などという人もいますが、そういう単純なものではないことは、前回説明しました。多少重複しますが、この点をさらに検討してみましょう。

どのような場合に、憲法上の権利を制限できる?

 日本国憲法で保障された基本的人権は不可侵のものとされていますが、これは完全に剥奪することはできないという意味であって、絶対に制約不可能というものではありません。

 それでは、どのような場合に、憲法上の権利を制限することができるのでしょうか。

人権同士の調整の必要性

 まず、人権同士が衝突して調整が必要になる場合があります。わかりやすい例でいえば、同じ広場で二つの違う団体が、政治集会やイベントなどを開催しようとして競合するケースが挙げられるでしょう。どちらの団体にも表現の自由(集会の自由)が憲法上保障されているとすれば、何らかの調整を行うため、一定のルールによる制限が必要になってきますが、これは多くの自治体の条例で決められています。

 また企業の労働条件に不満な労働者が、労働組合に加入して団体交渉やストライキを行う場合に、企業側が拒絶して労働者を一方的に解雇したりできないのは、営業の自由(憲法22条1項)を制限して、労働基本権(憲法28条)を保障していることになります。これは労働組合法による制限です。

人命や健康など重要なものを守るため

 また、人命や健康や安全などの重要な価値を守るために必要な規制措置を取らねばならない場合もあります。これは緊急事態に限ったことではありません。前回も述べたように、労働安全衛生法、消防法、食品衛生法などではこの観点から、企業の営業や施設使用について一定の規制を加え、営業や建物使用の停止命令などの強い権限も公的機関に与えています。

 例えば企業の工場が汚染物質を大気中に放出して健康被害を起こす場合、大気汚染防止法に基づいて、都道府県知事は企業に操業停止を命じることができます。またレストランで食中毒を起こすような食事が出た場合(その原因がレストランの料理人のせいでなくても)保健所長は食品衛生法を根拠にして、営業停止を命じることができます。

 (これらの目的以外にも、経済社会の発展に向けた政策を行うため、財産権や営業の自由に制限を加える例は多々ありますが、ここでは立ち入りません。)

人権の最小限の制約と公共の福祉

 以上見たように、憲法はもともと基本的人権が一定の場合に最小限の制約を受けることがあることを想定しているのであり「今の憲法がある限り、人権を制限できない」というのはまったく事実に反しているわけです。

 ここで、憲法第13条の条文を見てみましょう。

 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 「公共の福祉に反しない限り、最大の尊重を必要とする」ということは、言い換えれば「公共の福祉のため、最小限の制約はありうる」ということでもあります。
 (ただし「公共の福祉」という概念は、安直に「国家のため」とか「公共の秩序のため」などという大きな言葉で置き換えてはならず、あくまで人権同士の調整や、生命・健康など重要な価値を守るためなど、個人の尊重の観点から個別に考えていく必要があります。個々の人間を尊重する観点を忘れると、単なる「お国のため」になりかねません。)

 コロナウイルスの危機に対応して人権を制限するかどうかの議論も、いわばこれらの応用問題とか拡張バージョンの問題として考えてみれば良いと思われます。

法律の根拠がなければならない

 なお重要な注意点を挙げておくと、これらの権利の制限を公権力が行うことが許容されるとしても、政治家や行政が発案して思うままに制限をして良いのではなく、法律(または条例)の根拠が原則として必要です。仮に誰かの健康や安全や何らかの権利を守るためであっても、法律の定めもないのに公権力が介入して、国民の自由や権利を制限して良いわけではありません。

人権侵害への歯止めとしての憲法

 逆に、法律の根拠がありさえすれば、どのように権利を制限できるというわけでもありません。当然のことながら、いくらでも法律によって制限ができるのでは、憲法で人権を保障した意味がなくなってしまいます。
 (以前の記事でも書いたように、大日本帝国憲法では、「法律の範囲」で自由や権利を認めるという構成になっていたため、この法律の範囲を狭くすればいくらでも国民の権利や自由を制限することができ、これが多くの弊害を引き起こしました。)

 言い換えれば、国や自治体は、生命や安全や健康などを保護したり、人権同士の調整などをするために、国民の人権を法律によって制限することがあるのですが、その制限が不当で行き過ぎた侵害になったり、権力が濫用されたりしないように歯止めをかけることが、憲法の重要な役割なのです。

 それでは、具体的にどの程度の制限であれば、憲法に違反せず許容されるのでしょうか逆にいうと、どのような制限であれば憲法違反となるのでしょうか。これについては次の記事で検討してみましょう。

(以下、続く)

 

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