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コロナウイルス危機と憲法(3)

 権利の制限は憲法上どこまで許されるか?

 憲法で保障された権利や自由は絶対無制限というわけではなく、法律によって権利や自由を制限することが認められる(=制限を加えても憲法違反とはならない)場合があることについては、前回の「(2)」で説明しました。

 そこで次の問題として、このような権利への制限が憲法に違反するかしないかを判断する基準は、具体的にどう考えれば良いのでしょうか。

 具体的な考え方の基準

 この基準は論者により様々な見解がありますが、おおむね次のように手順を踏んで考えるのが妥当でしょう。

  ①どのような憲法上の権利や自由を制限するのか。制限されるのは憲法で保障された権利や自由なのか。
  ②その制限を行う目的は何か。目的は正当で重要なものであり、権利や自由を犠牲にしても追求すべきものか。
  ③権利や自由に対する制限は、その目的達成のために必要で合理的な範囲か

①どのような憲法上の権利や自由の制限なのか?

 まず①についていうと、例えば大気汚染防止法や労働安全衛生法で、危険防止のため企業の活動の停止を命じるのは、営業の自由に対する制限であり、これは憲法(22条1項、さらには29条)で保障される権利への制限であると考えられます。
 また、仮に国民にロックダウンを命じる法律ができたとすれば、これは居住・移転の自由(これも22条1項)に対する制限となり、これも憲法で保障される権利に対する制限です。
 一方、極端な例として、殺人やレイプは当然刑法によって犯罪とされ禁じられていますが、「殺人する自由」や「レイプする自由」などというものはないので、これらは憲法上の権利や自由の制限ではありません。
 (机上の論理だけでいえば、「人間には自分も他人も殺す自由が本来憲法上はあるのだが、他人への危害を防ぐため、やむを得ず他人を殺す行為だけは規制されている」という理屈も成り立たなくはありませんが、そのような解釈をする論者はほとんどいないと思われます。)

 さらにいえば、憲法が保障する自由の中でも、表現の自由や信教の自由、思想・信条の自由などの精神的自由は特に強く保護されるべきだと一般に考えられています。例えば表現の自由の中核ともいうべき政治的言論の自由に対する制限は、とりわけ民主主義の重要な基礎でもありますから、営業の自由に対する制限よりも厳しく慎重に判断されなければならず、安易に「言論への規制も合憲」というわけにはいきません。

②権利や自由を制限する目的は何なのか?

 次に②についていうと、どんな目的のためにでも国民の権利を制限して良いはずがなく、あくまでその規制の目的は重要で正当なものでなければなりません。つまり国民の権利や自由を何らかの程度犠牲にしてまでも守る必要があるほどの目的でなければならないということになります。

 営業の自由や財産権に制限を加える労働安全衛生法、大気汚染防止法、食品衛生法、消防法などの法律は、いずれも生命や安全や健康を守ることを目的にしています。これらは重要で正当な目的といえるでしょう。コロナウイルス危機をきっかけに盛り上がっている国民の権利制限の議論も、やはり生命や健康を守るためという意味で、重要で正当な目的であることは間違いありません。
 優先度からいえば、営業活動をある程度犠牲にしても、人間の生命や安全や健康を守るべきという考え方に一応の説得力はあります。

 これが例えば「社会秩序を守るため」とか「社会の道徳を守るため」ということになると、一見立派なことを言っているようですが、漠然としてとらえどころがなく具体性に欠けるので、これだけでは重要で正当な目的とは言えないでしょう。

③その権利や自由の制限は、必要で合理的な範囲なのか?

 最後に③の切り口が問題になります。国民の自由や権利を規制する目的が重要で正当だったとしても、どのようにでも規制して良いというわけではありません。その制限は、あくまで目的実現のために必要で合理的な範囲でなければならず、過剰な規制であってはなりません。

 以上の①②③の検討を踏まえて、多少の例を想定した思考実験をしてみましょう。

思考実験1:ロックダウンの場合

 自宅からの外出規制も含むようなロックダウンは国民の移動の自由や営業の自由に大きな制限を加えるものですが、生命・安全・健康という重要な価値を守るために、どうしても必要で合理的な範囲での制限であれば、憲法のもとでも許容されると考えられるでしょう。

 必要で合理的な範囲かどうかは、医学とか衛生学などの科学的知見も重要な判断基準になってくることになります。例えば、外出規制までしなくても、幹線道路や主要交通機関の交通制限とか、各種施設の営業制限などで、同じような効果が得られるのであれば、外出規制は過剰で行き過ぎの制限であり、国民にとって権利制限の程度が小さい規制手段=交通制限や営業制限の方をとるべきだということになるでしょう。
 (憲法13条で「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とされていることを思い出してください。自由について「最大の尊重」をするということは、逆にいうと、可能であれば規制は必要「最小限」にするということです。)

 現在のコロナウイルス特措法では、ロックダウンはできないことになっていますが、以上のとおり考えると、これは憲法改正などする問題ではなく、まずは新たな法律を制定したり現行法を改正することによって対応可能な問題ということになるでしょう。

思考実験2:言論統制の場合

 一方、例えば「コロナ危機への対策の効果を維持するため、政府を批判する言論を規制する」などという法律を作るとしたら、どうでしょうか。これは「コロナ危機への対策の効果の維持」は抽象的であり、政府批判の言論という(民主主義の社会では)非常に重要な自由を犠牲にするに値する目的とは到底言えないでしょう。
 さらに言論を規制することでその目的が実現できる関係にあるとも言えないので、そもそも必要性や合理性があるとは言えないことになります。

 このように、憲法上の権利や自由を制限するといっても、営業や移動の自由を制限するのと、表現の自由(言論の自由)を制限するのとでは、まったく状況が違ってくることに注意してください。 

安易に「憲法の方を改正すれば良い」と考えることの危険性

 以上のように、現在の憲法のもとでも、生命や健康などを守るために営業の自由や居住移転の自由を制限することが許される場合があることになりますが、もう一つ重要な注意事項があります。

 それは「いろいろな規制の法律が憲法に違反するかどうか、いちいち基準に照らして検討するのは面倒で煩雑だ。憲法そのものを変えて、緊急時には当然に権利を制限できるように明記すれば、憲法違反の問題は起こらなくなるから、そのほうが良い」と考えてしまうのは危険だということです。

 これまで、憲法で保障された権利や自由を法律で制限することは不可能ではないこと、但しその制限が憲法違反とならないためには、それなりの手順を踏んで一定の基準に照らして個別に検討する必要があるということを示してきました。

 つまり憲法は、法律による権利や自由の制限の行き過ぎ、不当・過剰な規制に対するブレーキの役割を果たしているのです。(ちなみに、これを「権利の制限に対する制限」と呼んだ人もいます。)

 ここで憲法の方を変えて、例えば最初から「居住・移転の自由はやむを得ない場合には制限できる」という条文を憲法に入れたら、どうなるでしょうか。こうなると、「やむを得ない場合」にあたるなら、どこまでも際限なく制限できることになりかねず、最初から憲法のお墨付きがついた状態になり、歯止めがなくなってしまいます。つまりブレーキそのものが緩められたのと同じ状態になりかねないのです。

憲法は変えず、法律だけを変えていく

 むしろ憲法の原則(権利、自由の保障)の方は変えないままにしておいて、法律の制定や改正で必要な対応を行い、その法律による権利や自由の制限が憲法に違反していないかどうか、常に問い直されるような状態にしておくべきなのです。

 以下、続きます。

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