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ささやかながら、元想い人について

昔の恋バナをしようと思う。

ここ数日、いや、数週間色々なことに追われて心がかき乱され、結構ヤバい感じになっていた(ふんわり表現)。
原因は特定のこれってわけではないのが、不思議なものだ。いろんなものが同時に積み重なっていたというのはあるけれど。

まぁ言ってしまえば「10代の頃に戻った」感覚。昔の癖だったり考え方だったりがぶり返して、情緒がかなりヤバい感じになっていた(ふんわり表現)。
元に戻ったとも言えるんだけれどネ。

その中で一番厄介な癖が、つい三日前に出た。
その癖を体で感じながら「やっぱり人は変わらないんだなぁ」と感慨に耽ったのだった。
変わりたいなぁと思っていたけれど、やはり積み重なったものをなかったことにはできないもので。
ちゃんと過去を見つめるタイミングが来たのかなとも思う。

10代の思い出は防衛機制がはたらいて半分くらいが消えているのだけれども。それでも覚えてる部分は、ある。

10代の頃といえば、まぁここでも書いた記憶があるけれど、そこそこに暗黒時代が多めであった。
そんな私は現実に屈さず(ネットや創作に逃げていたけれど)、なんとか今日まで生き延びられたのはひとえに、元想い人のおかげでもあるだろう。

感傷パート:あの人について

ネットの海を放浪した時に見つけた、一つのアカウント。ハンドルネームは読めない難解な漢字だった。後で調べると「夕暮れ」という意味があるらしかった。素敵。

ハッシュタグで何かを検索していたのを覚えている。私を繋いでくれるインターネットには、無限の可能性と、無数のアカウントが転がっていたのだ。

そんな中、その人のアカウントを、見つけた。
投稿文があまりにも輝いて見えたのであった。ぽつぽつと並べられた言葉は、大量の言葉で溢れるSNSの中で、ぽつんと漂うボトルメッセージにも見えた。

10代の、ちょっと拗らせた少女にとっては黄金の文章に見えた。

表現がとても素敵だった。
ネットを挟んだ、向こう側投稿主がわからない言葉の選び方。

到底真似できるものではなかった。その人だから生み出せる文章。そういうものに出会った瞬間であった。

世の中には、こんなに美しい文章があるのか!
衝撃。感動。あれは確かに一目惚れだった。

すぐさま仲良くなろうと、全ての投稿をチェックし、メッセージが送れそうな時はすかさず送った。
大ネトスト時代の幕開けであった。

恋とは?

その人はかなりかなり優しい人で、私が送るメッセージに全て返事を返してくれる人だった。
それに、私の投稿も見てくれる人だった。
個人チャットで、私だけに紡がれる言葉がとても嬉しくて、好きになった。
好きになってしまったのだ。

私は、あの人に恋をしてしまっていた。

年齢も、住んでいるところも知らない。声も、姿形も何も知らないのに、私はその人に夢中だった。
毎日のようにレシートレベルの文量のメッセージを交わす。
話の内容は本当に他愛のないことで。中身はからっぽなのに、言葉はずっと美しかった。私はその人の文章が大好きだった。

ジュディかよ。文通という要素しかないけれど。

その人のメッセージを読むために、日々の学校も勉強も頑張れた。
頑張った、というか、やり過ごした、というか。

メッセージをしない時間もあの人のことで頭がいっぱいになった。返事が返ってこない時は死んでしまったのではないかと不安になって、夜中にひっそり泣いた。

どんな人なんだろう、どこに住んでいるんだろう、何をしている人なんだろう。
普段は何をしているのかな。パソコンを開く頻度は? スマホを開く頻度は?
本人に聞けば良いものを、怖くて聞けなかった。

聞いたら、実在していること認めたことになってしまいそうで。

ネットを通してやりとりしているんだから、その向こうに生身の人間がいるのは当たり前なのだけれど、それを自覚するのが10代の私は怖かったのだろう。

その人の文章が大好きで、そこから紡がれる言葉が愛おしくて。
その人の言葉で現実リアルを紡がれるのが嫌、だったのかもしれない。
今思えば。今思えば、ね。

失恋とは、成就の予行演習

そんな大ネトスト時代は私の焦りで終止符が打たれた。
その人に想いを伝えたのだ。好きでたまらない、と。

付き合いたかった。10代なのだ。
その人を独占したかった。
日常や現実が独占できないなら、せめてネットの中でも。私というものを相手に刻み込みたかったのだ。
その衝動のまま「大好き、付き合ってほしい」と言った。言ってしまった。

結果、振られた。

顔も知らない、本名も知らない、性別も知らない、それなのに、告白、とな?

相手は大困惑。「何も知らないくせに」と拗ねた口調で断られた。適当なこと言ってんじゃねぇよ、みたいなニュアンス。
まぁその文章もまた美しかったのだが、しかし。失恋である。

好きです、付き合ってくださいというのは現実世界でのみ通用するもの、というのが当時の潮流で。
ネット恋愛という言葉も今よりかはかなり浸透しているわけではなかった。
でも好きなんだもん!衝動で行動する性格は治らぬ。
今もそうである。だいぶ弁えられるようになったけれど。

残念ながら私は図太く、そして狂人であった。恋する狂人くるりんちゅに諦めると言う選択肢はなかった。
何をしたか。変わらずに告白し続けたのだ。

メッセージはレシートどころか巻物レベルに長くなった。それだけ想いをぶちまけた。
どんなところが好きなのか。毎晩寝る時にどんな気持ちになるのか、返事が来ない時にどんなに寂しいか……。

ゴメン、想い人。本当に私は文章に生きているんです。

ブロックされればそれまで。「嫌い」と言われればそれまで。無視されればそれまで。
玉砕覚悟でメッセージを送り続けた。怖いね。ストーカーだ。

ラッキーだったのはブロックも拒絶もされなかったことだ。
もっとラッキーだったのは返事がちゃんと返ってきたことだ。

「嫌い」は言われたけれど。その時はかなり落ち込んだけれど。

諦めずに、私の持つありとあらゆるユーモアと、情熱と、知識をフル動員させて、全力で言葉にした。

最初はそれはそれは冷たい返事ばかり返ってきたけれど、めげなかった。
それがいつしか、「面白いね」と言ってもらえるようになった。
相手の中で私は「厄介なストーカー」から「ちょっと面白い人」になれた。
ただ、まだまだ両思いには程遠くて、「好き」ははぐらかされ続けた。

私が毎日思いを綴って、それを相手が見て、あしらうというのが半年ほど続いた。

半年。つまりは六ヶ月。長いって。

相変わらず、顔も名前も性別も生息地も知らなかった。
しかし依然として好きな気持ちは消えず、むしろ燃え上がる一方だった。

文章、考え方、感性、その人から紡がれる言葉全てが愛おしかった。その人にしか創られない世界が確かにそこにあった。

返事が来なくなったら「とうとう嫌われたか」と悲しみ、返事が返ってきたら「好きだなぁ」と舞い上がっていた。
典型的な恋を、していた。

そして、ようやく結ばれた。半年の私の執着心が相手の心を動かしたのだった。

最初のツンケンした文章ももちろん好きだったけれど、私への好きが滲み出る文章も好きだった。

気がついたら、恋仲のような関係になっていた。「初めて出会った日を記念日にしよう」。記念日は私が想いを伝えるずっとずっと前に設定された。

今でもその日付は覚えている。

大好きな大好きな人と恋仲になって、徐々にお互いはお互いのことについて話し出していた。
今までの空っぽの話ではなくて、現実の話も出始めた。
じわじわと互いの現実がネットを侵食し出した。
住んでいる場所、年齢、職業、性別、名前——。

本当に相手が世界のどこか、もっと言ってしまえば日本のあの場所に住んでいることがわかった。

わかってしまった。

当時の私は好きな人の情報なわけだからそれはそれは舞い上がったけれども。
恋愛に現実の要素が加わっていったのには気づいていなかった。

両想いになって、2年足らずで私は相手から逃げた。

現実が全身を包み込んだようで、怖くなったのだ。
私の「好きだ」という気持ちだけで相手を振り回しているような気がした。相手を知れば知るほど、魂の美しさに触れて、罪悪感に塗りつぶされた。
未だに現実世界で会ったことがないのに、こんなにも好きになってしまうだなんて! こんなにも惹かれあってしまうだなんて!

あの人には、もっとふさわしい相手がいるのに。
私は狂人なのでまぁ、いいとして。

あの人は優しく、言葉だけでなく魂までも綺麗な人だった。
私なんかと付き合っていたら、不幸になる。そして、逃げた。

まずは連絡の頻度が落ちた。
巻物はレシートに戻った。数時間に1回から、半日に1回、1日に1回……3日に1回。

「ごめん、忙しくて」と謝って私は相手を遠ざけた。優しい人だった。その優しさにつけ込んだ。

「いつでも待ってるからね」相変わらず文章は美しくて、大好きだった。けれど、それを表面に出したら相手を縛り付けてしまうような気がして、そっけなく返した。

けれど、やはり好きなものは好きで。一度だけ、現実世界リアルで会った。

それが私にとっては決定的な絶望で、相手にとっては二人の将来に向かう一歩であった、のだと思う。

私は相手に好かれるほど素敵な人間でも立派な人間でもなかったことを、見せつけられた。
自分本位なクソカスだったことを思い出したのだ。
あの人は、言葉も、見た目も、素敵な人だった。

ので、別れた。色々と理由をつけて。相手をめちゃくちゃ傷つけて。めちゃくちゃ泣かせて。別れた。
苦しかった。けれど、あの人はもっと苦しんでいた。
ようやく心を開けたと思ったら、相手わたしが逃げたのだから。

ごめん、ごめんね。謝っても謝りきれない。
恋と恋人の違いがわからなかったのだ。

二人だけで戦うには、現実は生々しくて、重すぎた。
二人で逃げるには、何も知らなさすぎた。
二人で潰れる前に、私はあの人を突き放した。

もうあのアカウントは更新されないけれど、未だに残っている。
あの人の言葉はほとんど消えてしまったけれど、私はまだまだ覚えている。
あの人が今幸せなことをただ祈っている。

衝撃的な出会いと運命的なやりとりは、あっという間にかき消えた。
私が勝手に初めて、勝手に終わらせた。
初めての恋で、最後の愛だっただろう。もうあれ以上に誰かの何かを好きになることはなさそうだ。

そんな、最低で素敵な思い出を抱えて、私は今日も生きていくのだ。

理論パート:エモい文章だけで終わらせないぞ

おいおいおいおいおい!

10代の頃の感覚が戻ってきたせいで、なかなかに感情的な文章を書いちまっているような気がする。

自己憐憫をするんじゃあねぇ。

相手に責任を持つのだ。持てなかったから逃げたのだけれども。だからこそ、今、責任を持つのだ。

最初の恋で最後の愛だぁ? まるでここで人生が終わるような人の言葉である。私の未来を私が決めようとしないでいただきたい。いつだって私は心の赴くまま

ちょっと大人になった私から、過去の想い人のことを思い出しながら言いたいことをまとめていこうと思う。
あの人は、恋人である前に、想い人であった。もうどちらにも「元」がついてしまうけれど。

愛とは?

正直、恋はもう結構経験している。と思う。小さな恋から大きな恋まで。

恋というものは自分本位なものなので、大抵は実る実らないの前に勝手に幻滅して何も生み出されなかった。
付き合った彼氏たちにもそこまでビックラブは感じなかったし。
たくさん愛されたんだろうけれど(形は色々あれど)、私自身が相手に愛を送れていたかと言われれば、ちょっと、かなり、自信がない。

いろんな人に聞いたり、調べたりした中でたどり着いたのが「愛とは幽霊みたいなものである」だった。
言った人物が、ミシェルフーコーだと思っていたら、ラロシュフーコーだったというお茶目さんを発動させたのは別の話。

恋はこんなにも自覚できるのに、愛が感じられないのは、「いるかいないのか確証がない」もしくは「つかみどころのない」ものだからなのか〜! と納得。

人の気持ちなんて一ミリも興味がない(つーかわからない)

挫・人間「品が無ぇ、萎え」

のですから、そりゃ。相手の愛も果たして愛なのか自己満足なのか。

自分の気持ちにすら責任が持てないのだから、「This is love !」なんて声高々に叫ぶことなんて本当は無理なことな話であるのだ。

だからラブロマンスは古典からずっと人気なわけであって(だって幽霊だもん! 定義は自由なもんだ!)。
わかんないものをずっとずっと見続けていたわけだ。

確かに、愛はまだわからない。実感もない。幽霊だし。
けれど、私は絶えずに愛しているものがある。

それが文章なのだ。
ハイハイ、いつもの。でも、これだけはずっと自信をもって言える。
文章にかける情熱。文章に対する熱意。
いつまでたっても消えないし冷めない。

「恋は下心、愛は真心」とか言われたりしているらしい。
「本当に愛しているなら、相手との関係に名前をつけたりはしない」とも人生の先輩が言っていた。
あと、「〇〇だから好き、は恋で 〇〇でも好き、が愛」とも後輩が言っていた。

ああ、私と文章はまさにこんな関係。

名前はないし、決して結ばれることもない、かもしれない。
どういう状態が結ばれているかは定義が難しいところだけれど。
私、というのと文章、というのがどんな関係であっても私は書き続けるし、文章を作り続ける。こりゃ、愛じゃん。

だから、きっと10代のあの頃はあの人の「文章」に恋をし、愛していたのだ。

言葉で恋をしているものだから、そりゃ一般的な恋愛がわからないわけですわ。ようやく合点がいった。
おそらく、私の恋愛対象となる人は「キラキラした言葉を紡ぐ人」なのかなぁ。実感が湧かないから、まだまだ考える余地がありそう。

もちろん、あの人のことも好きだった。当たり前だ。
私にたくさんのメッセージをくれたこともそうだし、毎日たくさんの「好き」を送ってくれた。

あの人の生み出す文章が、言葉が大好きだった。いや、愛していた。
文章の向こう側にあの人はい続けたし、あの人がいたから文章を読み続けられた。
文章と人は、切っても切り離せない。だから私は、心からあの人を愛していたとも言える。今なら言える。

だから半年近く嫌がられていたのにも関わらず、めげなかったのだろう。
恋する狂人ほど恐ろしいものはない。
相手の優しさに救われ続けていた。

ただ、人間を愛するなんて、初めてのことだった。
ので、すぐ色んなものに取り囲まれて、にっちもさっちも、いかなかったのだ。

二人だけの世界、というのはネットの中にしかなくて。
一歩外に踏み出せば学校だったり、生身の人間関係だったり、いろんな「当たり前」「普通」「常識」を押し付けられて。
そういう面倒くさくって嫌で嫌でしかたないものがあった。

10代の現実なんて、厄介なものでしかない。
なんでか知らないけど、学校という箱に放り投げられて学力や容姿や体型、運動のセンスで日々比べられて、ちょっとでも出る杭になったら、打たれて、打ちのめされて。

恋とは、一種の現実逃避

これに近い気がするんだよなぁ。
好き、愛している、愛したい、この気持ちはずっと続いていた。
だが、現実がそれを邪魔するのだ。

10代の小娘にはどうしようもない現実、世間、人間が絶えずに襲いかかってくる。あの人とのチャットルームだけを私の世界現実、にしたかったのだと思う。

ああ、センチメンタル。
恋愛って面倒くさくて難しいものなんですね。
ただ「好き」ってだけじゃ、一緒になっちゃいけないんですね。

現実で出会わなければ、同じコミュニティで出会わなければ、年齢が近くなければ、一緒になれないものなんですね。
今はかなり自由度も高くなってきたとはいえ、やはりやはり世間の目というものはまだまだ厳しい。

世間なんて、本当はないのかもしれないのに、いつもやはり気にしてしまう。

ただ自分が「好き」なだけなのに、そこに付随する責任の重さに、ことの重大さに、勝手に生み出される軋轢に、身動きが取れなくなってしまうのだ。
実際に、身動きが取れなくなって、自分を嫌いになって、相手すらも嫌いになりそうで、そんなのは絶対に嫌だったので、別れた。

否定的な言葉が一言ぶつかっただけで、心に甚大な被害を及ぼしてしまう。キッツイネェ。

けれど、私は恋することをやめないし、愛することをしていきたい。
そこに理由をつけるようなものは、おそらく「愛」でもない、ただの自己満足なんじゃないでしょうか。
「お金持ちだから、好き」「イケメンだから、好き」「料理が上手だから、好き」こんなこと言いたくない。

「好きだから、好き」これだけで、いいのだ。

それを許してくれる現実が、私には欲しいかな。

あの頃の弱くて自己憐憫ばっかりで脆かった頃よりかは、そこそこに逞しくなった。気がする。
今なら、それができる気がする。
いろんな要素で相手を見定める恋はしたくない。どんなことを言われたって、なにをされたって、「いいじゃん、好きなんだから」って前を向けるような二人になればいいのだ。

10代の感覚が甦りつつある今、フラッシュバックが止まらない今でこそ、できることがある。もう泣いてるばかりの私でいるのは嫌なのだ。

思い出しちゃったものは仕方ない。逃げないぞ。それとともに私は生きていく。

図太さは健在だし。
反省も批判もできるようになった私としてできることは、あの人のことを忘れないことなんだと思う。

あの美しくて、優しくて、強い一本の軸を持っていたあの人を。
選び抜かれた言葉で紡がれた文章と、それを書ける唯一のあの人を。
あの時の胸の高鳴りと私の中で輝いた感情を。

同時に、矮小で自分勝手で、ずっと傷ついていた私を。
臆病で、現実と向き合うのが怖くて逃げ出してしまった私を。
私の送った愛と、あの人からの愛を。

思い出して、何度でもあの時のあの人に恋をして、愛するのだ。

きっと、相手は忘れているかもしれないあの感情を忘れないことが、私にできる贖罪、なのかもしれない。
幸せだったあの時を、なかったことにしないで、思い出し続けることが私の責任、なのかもしれない。

愛してた、よー。

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