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加藤文元と千葉雅也の対談を見て「等号」のことを考えた。・・・数学の祭典 MATH POWER 2022

 数学者・加藤文元と哲学者・千葉雅也の対談のテーマはずばり「数学と哲学のあいだで」だった。数学の個別の問題には疎いけれど思想、哲学には興味津々の僕にとっては願ってもない大風呂敷なテーマでとても楽しくかつ色々考えさせられた。

 印象的だったのは加藤が、どんな難問も最終的にはきれいに、ある時はきれいではないけれど、とにかくちゃんと解決することが不思議で感動的だ、と述べていたこと。
 それとは対象的に千葉は有名なソーカル事件を引いて、数学との関係においては哲学的思考の不確実性がいつも念頭にあるということを言っていた。
 数学はどんなに複雑で困難にみえる問題もいつかはある規則性に還元でき、哲学はどのような思考を経ても常に先へ先へと横すべりして行く構造をもっている、僕はご両人の議論をそんなふうに受け取りました。数学は確実で哲学は不確実、あるいは数学は一義的で哲学は多義的。

 哲学は考えることが仕事でそのために使う道具は言葉です。数学は言葉も使うけれど確実さ、厳密さを保証するのは数や記号です。その記号の中でものすごく特異な記号が一つあります。それは誰でも知っている等価を表わすイコール(=)という記号です。
 なぜ特異かと言えば、イコール(=)がなければ数学自体が成り立たない。
 A=Bは数学的記述として意味をもちますが、ABだけでは数学とは言えない。つまり数学とは、イコール(=)を使うとA、Bという「違うものが同じになる(等価になる)」不思議な領域なのです。
 イコール(=)がない数学もすでに存在するかも知れないけれど、等価概念を使わない数学は不可能だと思います。
 それは記号のお父さん、言葉に関連しています。リンゴという果物はリンゴという言葉で表される。けれどリンゴという言葉は絶対にリンゴという果物にはなれない。ところが数学ではこれが可能なのです! リンゴという言葉(A)とリンゴという果物(B)がイコール(=)で等価になる。

 ややこしいので「関係という見方」で考えてみます。哲学を含む自然言語では、リンゴという言葉はリンゴという果物そのものではないけれど、リンゴという言葉はリンゴという果物を指す。つまり言葉の等価性とは「代表関係」です。言葉と対象が等価だというのは言葉が対象を代表しているということです。
 この「代表」という言葉は、代理、表現、表象などの語と置き換え可能です。実際、英語は representation という一語で済みます。ただここでは何となく代表という強くて一般的な語が自分的にはしっくりくるのであえて使っています。
 いっぽう数学ではイコール(=)を用いることでどんな二者の関係も代表関係ではなく厳密な「等価関係に」置く。それは、A=B=C=・・・と連続可能で、望めば集合というカテゴリーと幾何というカテゴリーをイコール(=)で結ぶことも出来る。言うまでもなくそれを担保しているのは、集合も幾何もイコール(=)という記号にすべてを依拠しているという事実です。
 そういう訳で加藤の、「とにかくちゃんと解決することが不思議で感動的だ」という数学への感嘆は、イコール(=)って凄い!、と無意識的に見抜いているからこそです。

 数学とは違い言葉は厳密な等価関係ではなくただの代表関係でした。けれどこの代表関係も数学の厳密な等価関係に劣らず凄いのです。数学で等価だというのは価値が等しいということです、言葉ではその価値の役目をになうのが意味です。
 数学では確実な価値がイコール(=)で連続可能です。同じように言葉は意味が代表関係によって拡張可能です。数学の等価関係が確実さを支えるように、言葉の代表関係は言葉の意味の拡張性を内包している。意味が拡張するとは意味の不確実さでもある。言い換えれば、言葉の意味は一つではなく不安定だいという当たり前のことです。

 人は世界を分かりたいと願う。けれど今まで見たように言葉と世界は無限に離れている。言葉は最初から世界にはなれない。そのうえ言葉の意味は一つではなく多義的である。でもとにかく言葉は世界を代表できる。かくして古代ギリシアの昔から哲学者は世界を代表する言葉を記述し続けて来た。
 こういう哲学の行為が凄いのはもちろん世界を言葉で代表させるという不可能に挑戦したことでない。哲学が凄いのは代表しか出来ない言葉を「ちゃんと使いこなしている」からです。
 言語哲学者のウィトゲンシュタインは言葉は日常生活で役に立ってなんぼだと言った、言葉はそれ以下でも以上でもない。お母さんが子供にケーキ買って来てとお使いを頼んで近くのパン屋さんで子供がケーキを買ってくる。
 この日常生活の単純なことを成り立たせるのが言葉の最大の目的です。ここで言葉はケーキの代わりの役目を果たしている。つまり言葉は両者の関係を代表機能によって橋渡しをしている。それが「うまく行った」ので晩ごはんの後で家族みんなで美味しくケーキをいただくことが出来た。
 哲学者にとってのケーキはその著作です、本は言葉のケーキです。僕の最近の美味しかったケーキは、千葉雅也『現代思想入門』は言うまでもなく、ルソー『社会契約論』、東浩紀『一般意志2.0』、片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門』です、あとアーレント『人間の条件』も。
 どの著作も言葉で世界の様々な事象を代表させる工夫と苦労と喜びに満ちていた。そこではちゃんと言葉が人の実用のために使われていた。とくに東の『一般意志2.0』に僕は強く触発されて、「吉永小百合、その顔・・・東浩紀『一般意志2.0』を拡張する」という記事の連載をこのnoteで始めてしまったくらいです。

 人は「同じ/違う」という誰にでも空気のように当たり前な認識の尺度で複雑な世界を単純化して捉えていると、僕は最近思っている。逆に言えば、人は世界を同じ/違うという尺度でしか捉えられない。これはまさに差異のことですね。
 だとすれば数学の確実な等価関係とは同じ/違うという認識方法をどこまでも字義通りに押し進めて世界にせまろうとしていると言える。同様に哲学は世界を代表させる言葉の使い方で同じ/違うという世界の謎に迫ろうとしているように見える。
 数学も哲学も世界と人間存在に好奇心旺盛で、その探究を思いっきり楽しんでいるということですね。そして同じ/違うという出発点からみると数学と哲学は結構近い、だからかどうか分かりませんが対談の最後で加藤先生が千葉先生を飲みに誘っていてニヤリとしてしまいました。
 あと数学を実際に研究をしている人に、イコール(=)という等号の存在をどう考えているのかを是非聞いてみたいと思いました。

 最後にこの対談が行われた「数学の祭典 MATH POWER 2022」の30時間以上の動画がニコ動で公開されているので、それを貼っておきます。ちなみに両氏の対談は 7:30 から 9:00 までです。


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