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成田悠輔×東浩紀「民主主義に人間は必要なのか」を見た。・・・『ゲンロン13』刊行記念、2022/11/28

 成田さんが最初に繰り出したジャブ、「なぜ東さんの影響力は小さいのか?」に掴まれた。成田さんは思想界とエンタメ界のスケールを問題にして、その比較として椎名林檎の名前を出した。当然エンタメの方がはるかに大きい。

 もう一つ印象深かったのは東さんが、「人間が嫌いだ」を連発していたこと。そしてAI推しの成田さんが自分で蕎麦を打ったりアメリカの生活で三日も人に合わないと手が震えると言っていたことも。
 これらのことはルソーの人格も含めて東さんの言う「人間のバグ」ですね。東さんはこのバグをもつ人間がたまらなく嫌い、がバグゆえにAIの民主主義=AIのサービスを受け入れない人間もいとおしい。だからAI推しだけど蕎麦を打ち、人に会わないと手が震えてしまう成田さんとのバグ対比がおもしろい。

 僕はずっとルソーが小説を書き音楽を作ったことが気になっていた。その一つの答えが「訂正可能性の哲学2」(ゲンロン13)にあった。ルソーはコミュ障のメンヘラだったという東さんの議論がそれ。一般意志理解のための射程の広さはさすが東さん。そして、コミュ障とエンタメは親和性が高い。
 ところで人はみな神経症のサルだという説がある。多かれ少なかれ誰もがルソー的だということです。異常こそがデフォルトで正常というものはない。

成田悠輔×東浩紀「民主主義に人間は必要なのか」
『ゲンロン13』刊行記念

 また東さんが動画配信のコメント欄を非常に大事にしているのを再確認できた。これはゲンロンの、知の観客を作るというスローガンに現れているように、思想にとって議論の内容と同じくらい観客とその感想やコメントが大事だということですね。
 観客が大事という言葉で、昭和の人気歌手・三波春夫の「お客様は神様です!」を思い出す人は相当な年齢ですが、この言葉はエンタメの本質を突いている普遍的な言葉です。
 東さんがニコ生やシラスのリアルタイムなコメント欄にこれほど執着しゲンロンという場にわざわざ観客を呼ぶのは東さんが知ってか知らずか知のエンタメ、知の吉本興業を目指しているからだと思います、知のジャニーズでもいいけれど、笑。
 成田さんは椎名林檎と較べて東さんの影響力が小さいと指摘していたけれど、椎名林檎は自分の劇場を持っていないし自分のレコード会社ももっていない。東さんは知のエンターテイナー(?)として劇場(カフェ)とレコード会社(出版)をもっている。椎名林檎より影響力は小さいけれどその強度は互角かそれ以上だと思います。

 東さんのこの姿はルソーが論文ではないエンタメとしてのベストセラー小説、『新エロイーズ』を書いたことに重なって見える。ルソーにとっての小説が東さんにとってのゲンロンです。そして両方ともエンタメです。これは何を意味しているのか?

 ポイントはバグこそが人間だという東さんの指摘、そしてバグとしてのルソーのコミュ障的人格と彼の小説=エンタメの親和性の高さです。

 東さんは、「訂正可能性の哲学2」で、「ルソーの一般意志は彼のコミュ障的人格を考慮に入れて屈折した記述として読まなければならない」と記し、「一般意志はあくまでも、「もしいま不平等な社会状態が成立しているのだとすれば」という条件のもとで、実在を想定するほかなかった仮説的な存在だったのではないか」という推論に至っている。
 これって、ルソーは自分のコミュ障というバグ(=不平等な社会状態)を遡って一般意志を発見したということですね。通常の理解とは真逆ですが一般意志にかかっていたモヤが一気に晴れる説得力です。
 で、僕はここにその発見にはどうしても小説=エンタメが必要だったことを付け加えたい。実際『新エロイーズ』は1756~58年に書かれ、『社会契約論』の前年1761年に出版されています。どういうことか?
 ルソーのこの行為は当時はまだ存在していなかった精神分析を先取りしているように見える。ルソーが患者、コミュ障というバグが症状、そして小説が精神分析家という構図です。ルソーは小説を通して自分と語りながら一般意志概念にたどり着いた。だから一般意志には分析家の役割をする小説がどうしても必要だった。
 人間のバグとは言葉です。精神分析は自由連想という言葉だけの治療です。そしてエンタメはコメントという自由な言葉を生成する。ルソーは自分の小説にコメントしながら自由に連想をふくらませ自分と対話しながら小説を書きその副産物として一般意志概念が生まれた。

 東さんにとってゲンロンがルソーの小説の位置にある。だからスポーツも音楽も特に必要ない。ゲンロンの中に批評、芸術、SF、マンガがあるから。東さんはそれらとの自由連想と対話を通して自分の思想の行き先を模索している。一般意志3.0がウィトゲンシュタインの言語ゲームに接続されるのはその大きな成果になるはずなので、今から超楽しみです。
 ちなみに僕がエンタメ、エンタメと連呼するのは、エンタメがその内にもっているコメントや感想という自由連想の精神分析的なシステムを駆動させて、主体を知らず知らずのうちに変容させるからです。
 精神分析の自由連想は言語ゲームの別名だと思います。そして分析家の位置にいるエンタメはその言語ゲームのルールを変える潜在的な力をもっている。つまりエンタメは言語ゲームのゲームチェンジャー=訂正可能性の推進力だと言えると思います。

 余談ですが、東さんは人間のバグとうまく折り合いがついているように見えました。けれど成田さんは自分自身の居心地にしっくりきていないように見えた、アルゴリズムの成田悠輔に動かされているというか。
 これは悪い意味ではもちろんなく、成田さんの真価はまだ発掘されていないということです。もし僕が編集者なら成田さんに小説をお願いしますね。純文学なら「手が震える」、SFなら「蕎麦を打つ」というタイトルで。
 そして一年後にまた東さんと対談をやって欲しいですね。

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