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「ディープな維新史」シリーズⅦ 癒しのテロリスト《テロルの原像》 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

《テロルの原像》


原田伊織氏は『明治維新という過ち』以来、吉田松陰を長州テロリストの首魁と論じている。
松陰を育んだ長州藩はタリバンやイスラム国と同じというのだ。

平和で文化的な徳川幕府を、悪徳のテロで崩壊させ、成立した三流の明治新政府が、近代のルーツであり、悲劇だったと。

原田氏は『知ってはいけない明治維新の真実』でも、テロリスト集団の「圧倒的中心が長州」であり、「首と胴体、手首などをバラバラにし、それぞれ別々に公家の屋敷に届けたり、門前に掲げたり、上洛していた一橋慶喜(後の将軍・徳川慶喜)が宿泊する東本願寺の門前に捨てたり、投げ入れたりした」と述べている。
 
なるほど吉田松陰は幕府要人の暗殺を口にしていた。また、実践しようとしたことで、逆に徳川幕府の手で殺されてしまった。
しかし、だからと言って、徳川幕府が一流だったとは到底思えない。
無能ながらも幕末まで外圧がなかったことや、賢明な国民に支えられ、どうにか持ちこたえたというのが現実であろう。
 
ところで、吉田松陰が徳川幕府に殺された後、義弟でもあった門下生・久坂玄瑞も、公武合体派の長井雅楽(ながいうた)の暗殺に失敗して、謹慎中に京都の法雲寺で『廻瀾条議(かいらんじょうぎ)』を書いていた(翻刻文は『松下村塾偉人 久坂玄瑞遺稿』に所収)。
 
そこで久坂が語っていたのは、テロリストとして刑死した義兄の吉田松陰の「忠義の魂」を弔う必要だった。
 
久坂が門下を集め、京都の蹴上で松陰の慰霊祭を開催したのが、刑死から3年目の文久2(1862)年10月17日である。
 
当時の詳細は、本「ディープな維新史」Ⅳの「討幕の招魂社史❾」で紹介したとおりだ。
 
また、蹴上でテロリスト復活の神事を仕切ったプロ神官が、維新後に靖国神社の初代宮司になった青山上総介、のちの青山清であった。

青山上総介〔明治になって青山清と改名し靖国神社の初代宮司となった〕(靖国神社蔵・画像加工)

青山宮司が小生の曾祖母(野村ヒサ)の祖父になるから言うわけではないが、蹴上の松陰慰霊祭が秘匿されたのも、その後のテロリズムの運動の起点が、その秘儀にあったからだろう。

当時すでに若くはなかった青山だが、若き門下生たちの情熱におされて、維新回天を用意する祭事に身を投じた雰囲気がある。

 そうであるなら、原田氏が罵倒してやまない松陰のテロリズム自体が、時代が求めた変革精神の本質であり、維新の美意識そのものに見える。 それは原田氏がいう「仲間内でハクをつけるための無差別殺人」(『知ってはいけない明治維新の真実』)の類では、断じてなかった。 

彼らは癒しの革命家であったのだ。

 言論が通じぬ時代に、最後に残された民主主義を実現できる手段がテロリズムであったのではないか。これが長州のテロルの原像であった。 

そこでシリーズⅦでは、松陰のテロリズムから派生した癒しのテロリストたちを書いてみたい。


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