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「ディープな維新史」シリーズⅡ 靖国神社のルーツ 長州藩の椿八幡宮 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

萩の椿八幡宮の全景(平成21年12月)

靖国神社のルーツが長州藩にあったことは、東京招魂社を発議した大村益次郎が長州人であったのみならず、初代宮司を務めた青山清も萩の椿八幡宮の宮司であったことから浮かび上がる。
 
萩の椿八幡宮は、藩政期に藩主・毛利家の庇護を受けていた。

毛利家と安芸国から一緒に長州に入った青山大宮司家初代・青山左近=青山元親が記した椿八幡宮の由来記「椿社記并御判物写」(山口県文書館蔵「毛利家文庫」)が今も残る。

それによると八幡宮としては鎌倉時代の寛元年間(1243年~1247年)から始まっていたが、そもそもは「開化天皇」の時代に創祀された祇園社がルーツだった。そして大化の改新後に、孝徳天皇に白雉を献上した草壁連醜経が、この「祇園社の社務」を管轄していたことで、椿八幡宮の初代宮司を東京青山本家の「日下部醜経大人命ヨリ拾代之祖等神霊代」(『靖国の源流』106ページに写真掲載)は「大山草壁醜経大人命」としていた。

確かに、この話は『日本書紀』その他からの伝承の焼き直しで、史実そのものではないのかもしれない。

だが、穴戸(山口県の古称「長門」のさらなる古称)で捕らえられた白雉が朝廷に献上されて「白雉」なる年号になったのは事実であり、そこに椿八幡宮以前の祇園社が何等かの関与をしていたであろうことも十分に想像ができることではある。

長州「穴戸」は謎に満ちている。

そんな謎めいたディープな椿八幡宮から、明治開国期に近代国家の象徴である靖国神社の初代宮司が誕生したのも、偶然ではなかったのかもしれない。

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