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映画「蜜蜂と遠雷」高みに手を伸ばす人は気高い

観賞を終え帰宅したら、ピアノコンクールの映画という情報だけ知っている家族から「で、最後に誰が勝ったの?」と聞かれた。私は「結果があまり意味を持たない映画だったよ」と答えた。

感想

私はバイエルで挫折したピアノ落第者。クラシックも全く詳しくない。けれど音楽は好きだ。118分間、純粋に音楽を聴くだけでも楽しめた。冒頭にブルゾンちえみさん演じる仁科や会場にいる人達の声で概要の説明が行われ、あとは登場人物の説明や背景の描写は本当に必要最低限。コンクールという勝負の短期間だけを集中的に描いているのが非常に面白かった。

4人のメイン俳優以外にも平田満、片桐はいり、調律師の人達など音楽に魅せられ音楽に仕える人々の存在も合間に挿入され楽しい。

圧倒的な魅力はやっぱり風間塵役の鈴鹿央士。怖いくらいの純度を持った眼と佇まい。あの眼の純度は小学生か?と思う程。好きなものを邪念なく楽しめるのが本当の天才なのかもしれない。

生活者の音

観賞したのは、この記事を読んだ直後だった。

クラシックのコンクールは、究極的に研ぎ澄まされた一音を競う場所。一方で、蜜蜂の羽音やどこかから聞こえる遠雷もやはり音。人によって聞こえる程度は違えども「世界が鳴っている」ことは共通。

松坂桃李演じる明石がこだわったのは“生活者の音”。音楽だけで勝負出来なくなり、就職し家庭を持った自分に精いっぱいの付加価値を付けたものが“生活者の音”なのだろう。けれどこれは最強の武器だ。だって聞く人は皆“生活者”なのだから。

例えば、この作品の音を消去して観賞したらどう感じるだろう。究極の音を競い合う作品でその音がなくなったら。それでも、4人のピアノを弾かずにはいられない情熱や交流は美しく響くだろう。音を重要視する作品だけど、その音がなくなっても物語の持つ強さが“生活者の私たち”に確実に残る作品だと思う。

物事を突き詰める人が持つ幼さ

何かに打ち込んでいた人はどこかに幼さが残ることが多いと思う。

最初の方に亜夜の“あるアイテム”が映り「あぁ、この人は何かを置いてきぼりにして過ごしてきたのね。だからこれを今も使ってるんだな」と思った。そしたら、まさかの「マサル、お前もか!」

2人が普通の人々が当たり前に経験することよりも、音楽に没頭する日々を優先して過ごしてきたことが、あの1つのアイテムでわかってしまう。そして亜夜とマサルが離れていた期間も、想いはつながっていたことを象徴するアイテムとして秀逸でした。

マサル役の森崎ウィンが素晴らしい

森崎ウィンが本当に良かった…。競争とか蹴落としとかではなく、自分が納得できる音を整える。どこまでも純粋で品が良く紳士的、でも心の芯に火が灯っているのが見える。この作品でのマサルが素晴らしすぎて、バラエティ番組で激辛グルメを食べている姿を見ると「もっと大事に森崎ウィンを扱ってくれよ!」と激昂してしまいます。

純度と気高さ

コンクールの舞台は相手を蹴落とす闘いの場ではなく、自分の音をいかに見つけて磨き抜いた音をどう奏でるかいう実践の場だった。究極の高みに手を伸ばし届きそうな人達は、競ってトップになるという意味合いすら薄くなるのだと初めて知った。人は高みを目指すほど純度が高くなり、気高さを増すのかもしれない。本人たちはそんなことすら思っていないだろうけど、ね。

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