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映画「花束みたいな恋をした」感想 もうひとりの私達のはなし

同じものが好きな人と出逢いたいとずっと思っていた。ある単語を言っただけで「あれ最高だよね」って好きな作品が伝わるような。もうひとりの私がいたら、どんなに楽しいだろうって。

でも、もうひとりの私は、やっぱり私ではない別の人間。出会った時から、いつか必ず別れがくることは決まっている。鑑賞しながらヘドウィグ・アンド・アングリーインチの「The Origin Of Love〜愛の起源〜」の歌詞を思い出していた。


始まりは別れた後の二人の姿。最初と最後が対となり、劇中繰り返される言葉や場面が多いが、時間の流れでその意味合いが大きく変わる。「付き合おう」って伝えるために歩いた道は、別れを切り出すために歩く道になり、新生活のために広げられたカーテンは、2人の生活の終わりと共に畳まれる。

同じスタンプを押しているかのように重なっていた2人の気持ちは、4年の歳月の状況変化や気持ちのズレにより、別れという同じ方向に重なっていく。何だよ、やっぱり似た者同士だな。

それまでの2人で過ごす日々が眩し過ぎて泣けてくる。もうひとりの私と共に、好きなものに情熱を傾けて気持ちを分け合った時間と大きな転換期。

自由と好きなもの。時代と共に変わるカルチャー。お金と生活。社会通念と責任。大人になることと馴化。誰かの恋愛が終わり、誰かの恋愛が始まる。

こんなに大切なことを共有する人、人生で一体何人いるだろう。

2人のカルチャーの共有が楽しくて、知っている言葉を聞く度にニヤニヤしてしまった。2021年以降の恋はきっと、この作品も共有されるのだろう。


時間と感性を贅沢に使えたモラトリアムの日々から、後半は生活するため変化に挑み、もがく生活に移っていく。特に麦君の「社会で生きていくこと」の葛藤が丁寧に描かれていて、想像以上に喰らった。

こころに余裕がなければ、漫画も映画も物語は自分の中に入ってこない。パズドラの存在意義を初めてこの作品で知ったよ。何も考えずに時間をやり過ごすためのツール。でもそのツールに救われている人も沢山いるんだよね。

麦君の心根の真面目さが社会に出てから際立ってきて「人生の勝算」なんて本を手に取った姿は、真面目さ故の痛々しさで堪らなかった。

物語の2015年から5年間の日本では、芸術的な技術は値切られる。就活を必死にくぐり抜けても、17時に仕事は終わらず自宅でも作業。再就職をしても派遣としての仕事。2人の5年は、大切な時間であると同時に、厳しい時代であることも描写されている。

例えば、2020年のコロナの影響は描かれなかったけれど、絹ちゃんの新しい勤務先はモロに影響を受けているだろう。表面的には出てこないけれど、そんな苦しい背景の中で好きな人と出逢い、恋をして、次の生活を生きようとする2人は、もうひとりの私達に思えてならない。

思い出を真空パックする魔法のツール=Googleマップ様。ストリートビューは、確かにそこに存在していた証明になる。けれど、いつかは更新されて別の風景や人がパックされる。結局、一緒に過ごした時間とかけがえのない思い出は、その人達の中にだけ形のない花束として残るのだろうね。

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