映画「惡の華」感想
あらすじ(公式ホームページより)
中学2年の春日高男は、ボードレールの詩集「惡の華」を心の拠り所に、息苦しい毎日をなんとかやり過ごしていた。ある放課後、春日は教室で憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を見つける。衝動のままに春日は体操着を掴み、その場から逃げ出してしまう。その一部始終を目撃したクラスの問題児・仲村佐和は、そのことを秘密にする代わりに、春日にある“契約”を持ちかける。こうして仲村と春日の悪夢のような主従関係が始まった…。
この映画を捧げられた人
変態ってどうして変態って言うんだろう?とずっと思っていたのです。
へん‐たい【変態】(広辞苑より引用)
①もとの姿・形をかえること。また、その姿・形。 ②正常でない状態。
③(変態性欲の略)性的行為や性に対する関心が正常でないこと。
一般的に「きゃーっ変態よー!」で使用されるのは③ですかね。①②は発育過程において、姿・形を変えることと考えると「変態=思春期」とも表せそうです。
作品の冒頭「現在 思春期に苛まれている、または思春期に苛まれたことのある人達へ」と文章が出てきます。つまり「思春期中、もしくは思春期経験者の人達へ捧ぐ」ってことですね。
思春期とリビドー
気になる子の体操着の匂いを嗅ぐとか、自分で身につけたいって、実際にやる・やらないのハードルは大きく違うけど、まぁ自然な欲求ですよね。私はそこではなく、2人の主従関係が進むうちに、仲村さんに足蹴にされたり指示されることに喜びを感じ始める春日に「リビドーは人それぞれ…!」と魅力を感じました。
仲村さんや佐伯さんの性的衝動もちゃんと描いてくれているのが良かったなぁ。
その描き方は「全裸監督」の黒木香さんの思春期の描き方に通じるかもしれない。行き場のない性的興味や欲求を絵で表したり、女子でも当たり前にリビドーがあることを表現してくれることで、救われる思春期真っ只中の子は多いと思う。
成長する身体と心、変化するホルモンバランスの嵐の中で、よくわからない欲求やモヤモヤにもがく期間が思春期なのかな。(大人になったって、自らのリビドーに折り合いをつけて、何とか消化していくって難しいんだけど)
印象的なシーン
春日と仲村さんが深夜に教室に忍び込み、最初は黒板に書くだけだったのがエスカレートして墨汁&モップで教室中をメチャクチャにするシーン。身体に窮屈に押し込められていた感情が爆発していて最高でした。
1998年に公開された「フレンチドレッシング」という作品があるのですが、その中で高校生が踊り狂うシーンがあり何故か思い出してしまいました。
10代が閉じ込めていた感情を一気に解放させる爆発力が共通しているのかも。
三者関係について
中学時代は春日、仲村、佐伯の3人。高校時代は春日、仲村、常盤の3人の関係性中心に話が進みます。1対1では盲目的になりやすい関係性に他者が入り込むことで、第三者の気持ちや視点が広がり物語を加速させていました。これって社会の人間関係と同じかなぁ、と。
春日と仲村さんの危うい主従関係は、2人の心の支えとなる大切なものだったけれど、明らかに間違った方向性へ進んでしまうわけで。そこに親などの第三者が入り込んで軌道修正することは必要なんですよね。
人は1人では生きられない、2人なら生きてはいける、でも2人きりでは危ういから複数人と関われると更に良い、というのを三者の関係性から感じました。
その他感じたこと諸々
・山に囲まれた小さな町の舞台は群馬県桐生市でしたね。ウィキで調べたら原作の押見先生が桐生市出身で設定の忠実さにびっくり。
・春日役の伊藤健太郎さん、何かあった時のリアクションが少し遅れ気味で、主従の「従」になりやすい気質が全体の雰囲気に現れていてとてもよかった。
ただ、ガタイの良さがどうしても気になってしまった。中学2年で運動も特にやっていなさそうなのに筋骨隆々で「そんな鋼のカラダ持ってたら仲村さんに余裕で勝ててしまうのでは・・・」とそこだけはノイズとして感じてしまった。
・玉城ティナさん演ずる仲村は、背が高くスタイルが良いことを隠すためなのか、わざと姿勢悪くひょこひょこと歩いている感じでした。原作未読で鑑賞してしまったので、実際の仲村がどんな感じなのか、これから読むのが楽しみ。
鑑賞対象と想定されていない人の感想
これから「思春期という台風の渦の中」に否応なしに巻き込まれていく小5の息子。私「惡の華 観に行ってくるよ」 息子「あー俺も行くわ」というやり取りがあり「PG12だけどまぁ大丈夫だろう」と一緒に鑑賞してきました。
「どうだった?」「面白かったよ、教室グチャグチャにするとことか」
それ以上多くは語らなかったけど、きっと色々感じるところはあったでしょう。
誰にでもそんな時期がやってきて、それは当たり前なんだよ、ということを事前に知っておけることは結構大事なことではないかと思うのです。
誰かの思春期の峠を越すと、またどこかの誰かの思春期の山場がやって来る。どこまでも終わらない思春期ループ。
だから、惡の華は「ほぼ全ての人々に捧げられた」作品なのだと思います。
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