受験で「かきん」された子ども
この時期になると思い出すことがある。まだ塾講師をしていた頃だ。個別指導のブースでは中学受験を終えた子どもたちが進学に向けて課題に励んでいた。
ある日私が雑務を処理しながら様子を見ていると、小6の男の子がふと私を呼び
「○○くんおちてたんやって」
と言った。聞き覚えのない名前で驚いたが、どうやらこの子の学校の友達らしい。そりゃあ知らないはずだと思いながら「そうなの」と返すと、その子は純粋な目で
「○○くん、親からめっちゃ“かきん”されてたのになあ」
と呟いた。課金、通常よりもお金を注ぎ込むこと。この言葉がゲーム以外の場面で、まだランドセルを背負っているような子から発されたことに私は驚きを禁じ得なかった。無意識に唇が力んだ。
大人相手だとそうでもないが、子どもを相手にしていると「次の一言を間違えてはならない」という場面がよくある。あの時がまさにそうだった。私は
「受験がダメでも、その子の成長はそこで止まるわけじゃないよ。人間の発達の速さは人それぞれだし、人によっては心と頭と体のバランスが取れるまで何十年もかかるんだから」
と返した。その子は妙に納得したような顔をして勉強に戻ったが、私は内心、これでよかったのだろうかとずっと不安だった。
受験は、競馬でいう3歳馬限定のクラシックレース(GI)のようなものだと思う。幼い子であれば猶更のこと。要には、大体同じ時期に生まれた個体の中から、その時点でもっとも大人に近く成熟したものを、点数という物差しで選別する行為が受験なのだ。
これだけ多様性が叫ばれて、発達の速さも人それぞれだという時代に「早熟性」だけを競うような受験で、心か頭か、その両方かの準備が整わないまま受験させられて、余計に傷を負う子どもが世の中にはたくさんいるのだろう。
偉人にも幼少期は学校に上手く馴染めなかったり、簡単な足し算すら理解できなかったという人はいる。ただ、そういう人が長い人生のどこかで爆発して偉大な功績を残すのは、私個人の体験として、成長を止めずに生き続けていれば、いつかどこかしらで「バランスが取れる」タイミングがくるからだと思う。にも関わらず、挫折によって成長を止め、生きることもやめてしまう子がいると思うと、本当に可哀想で仕方ない。
7歳で足し算ができた人と、20歳でできた人、21年後、両者は「足し算ができる」という意味では全く同等の存在になる。(重度のものはともかく)発達障害という概念は、晩成型の子に20年か18年という子どもの期間(と定義された時間の区切り)での成長を強制する圧力そのもののようにも思う。
いつかどこかでバランスが取れる。それを昔の人は「帳尻が合う」と言っていた。私もそうだと思う。どこかで帳尻が合うのだから、年齢なんていう、一元的な括りでものを考えない方が良い。
ある意味、いつかきっとバランスが取れるというのは、それだけで生き続けられる希望のように私には思える。
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