歴史を記録する チューリッヒから見た世界のサッカーとライターとしての2年間
これ、記事のネタになりそう!
サッカーを観たときに、旅に出たときに、ふと思う。
OWL magazineに寄稿するようになってから、自然とネタを集めるような習性がついた。
何やら職業病のような感じもあり、サッカーや旅を心から楽しめていないんじゃないの?と、感じないわけでもない。
しかし、あとで記事にするかもと思うと、目の前で起きていることを見る目がシャープになる。
どんな切り口で伝えようかと頭をめぐらせると、思いがけない発見がある。
文章を書くという行為には、感性を養う効果がある。
もちろん、なんでもかんでもメモしたり、とりあえず写真を撮ったりするのは意味がない。それではただの作業になってしまって、それこそ楽しめない。
自らの感性にしたがって、意図をもって残した記録にこそ意味がある。
そうした記録は、あとから振り返っても輝きを放つものだ。何を書こうか思案する際、しばしば過去の旅の写真を眺めるが、意図をもって撮ったものは、数多の写真の中から必ず浮き立ってくる。
例えば、この写真。
女子サッカー選手のイラストが描かれ、解説には「初めての、非公式の女子ワールドカップは、メキシコで開催された」とある。
僕は、どこで、なぜ、この写真を撮ったのだろうか?
今日は、この写真の謎を紐解いていきたい。
この記事は「旅とサッカー」をコンセプトとしたウェブ雑誌OWL magazineのコンテンツです。OWL magazineでは、中村慎太郎さん、宇都宮徹壱さんはじめ、個性豊かな執筆陣によるサッカー記事、旅記事を更新しています。Jリーグはもちろんのこと、JFLや地域リーグ、海外のマイナーリーグまで幅広く扱っています。
オフシーズンでもサッカーが楽しめる場所
2018年の夏、僕はチューリッヒを訪れた。
チューリッヒは、スイス最大の都市であり、世界有数の金融センターとして知られる。とはいっても、人口は40万人ほど。湖畔にあることも相まって、「大都市」感は全くない。
郊外のユートリベルク山から望むチューリッヒ
チューリッヒの旧市街(アルトシュタット)
僕自身も仕事がらみで訪れたのだが、幸いなことに、日程には週末が含まれていた。ヨーロッパで週末を過ごすとなったら、サッカーがファーストチョイスである。
スイス・スーパーリーグ。もちろん観たことはない。FCバーゼルとヤング・ボーイズくらいしか知らないが、チューリッヒにはFC Zurichというクラブがあるようだ。
ただ残念なことに、この時はオフシーズンだった。
仕方がない、普通に観光するかと思い、「おすすめ観光地○選」的なサイトを漁ってリサーチをした。ヨーロッパの街らしく、「中世の町並み」「教会」「美術館」などの言葉が並んでいた。
その中に明らかに異質な文字面があった。
FIFA World Football Museum
チューリッヒには国際サッカー連盟(FIFA: Fédération Internationale de Football Association)の本部がある。
そして、そのFIFAがミュージアムを開設しているらしい。
いい事を知った!
週末はここに行こう!
宿をとっていた旧市街からトラム(路面電車)に乗り、Zurich Enge駅に行く。
ミュージアムは駅前にあると聞いていたが、一見した限りではそれらしき建物は見当たらない。朝早かったこともあって人影が少なく、道を尋ねることもできなかったので、仕方なくあたりを散策する。
同じところを何度かぐるぐる回った末、ふと目線を上げると、それはおもむろに見つかった。
なんだか、薄っすら窓に書いてある。
しかし、本当にここなのか??
半信半疑で近づくが、入り口を見て、ようやく目的地であることが確信できた。ここで間違いない。
そう、このときはワールドカップ・ロシア大会の直後だった。
受付の若い女性から「どこから来たの?」と聞かれたので「日本からだ」と返すと、「ベルギー戦は素晴らしかったわね!結果は残念だったけど、よく戦ったわ!」と興奮気味にまくし立てられた。
これだけサッカーを好きな人が受付をやっているなら、本物だろう。
色彩豊かなエントランス
チケットを購入したあと、ロッカーに荷物を預けて身軽になる。このロッカーがなかなかいい。歴代のスター選手たちの名前が刻まれている。日本人の名前を冠したロッカーも4つあった。
釜本邦茂。三浦知良。澤穂希。宮間あや。
いずれも日本を代表する選手たちである。
並びを見ると、カズはロベルト・バッジョと縦関係になっていた。セリエA黄金期のファンはテンションが上がるかもしれない。実際のピッチでは、横か斜めの方が連携がスムーズだろうけれど。
現在ヴィッセル神戸に所属するアンドレス・イニエスタもいたが、その隣はマルタだ(注:ブラジル代表フォワード、W杯5大会出場17得点、FIFA最優秀選手賞6回)。こちらの方こそ縦関係の方が良いだろう。ゴールを量産しそうなユニットだ。
日本人初のバロンドーラー、澤さんのロッカーに荷物を預け、いよいよ中に入る。
入ってまず目を引くのは、FIFAに加盟する国・地域の代表ユニフォームの展示だ。地域別ではなくて、色の系統別に並べられている。
我らが日本代表はもちろん青コーナーにある。代表ユニフォームも、時期によって色も微妙に変わってくるが、この時に飾られていたものは青がかなり深い。
円形に展示されているので、上からでないと全貌は掴めないのだが、虹のようになっていて、実に鮮やかである。
ともすると世界地図や地球儀にしそうなものだが、このアイデアはなかなか秀逸だ。
FIFAの歴史
1階には、FIFAの歴史の展示がある。三段の年表形式で、サッカー界の主要な出来事を真ん中に、上にはFIFAの行事、下にはFIFAに加盟した協会が記されている。
1904年の発足時のオリジナルメンバーは、ベルギー、デンマーク、スペイン、フランス、ドイツ、オランダ、スイス、スウェーデンの8協会である。
どれも大陸ヨーロッパの協会であり、サッカーの母国・英国の4協会(イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)は参加していない。
このあたりはミュージアムではあまり詳しく展示されていないが、FIFAが創設100周年を記念して出版した「フットボールの歴史」に書いてあった。
ちなみにこの本、アマゾンの中古で手に入れたけど、とんでもなくお買い得だった。大判な上、写真もふんだんに使われているし、4人の歴史学者が一次資料を丹念に調べて書いているので記述の質や信頼性も高い。
そもそもFIFAを作った目的は、国際試合を開催することであった。
しかし、サッカーの母国は、レベルの落ちる大陸ヨーロッパとの国際試合には関心を示さなかった。何より、サッカーの競技規則を決める権限をFIFAに奪われることを危惧していた。
FIFAが、国際サッカー評議会(IFAB)のルールに従うことを決めたことにより、1905年にイングランド協会(FA)が、1910年に他の3協会がFIFAに加盟した。
国際サッカー連盟(FIFA)と国際サッカー評議会(IFAB)
▼英国4協会は、FAが中心となって、1886年に国際サッカー評議会(IFAB: International Football Association Board)を設立し、統一ルールを策定していた。
▼1913年にはFIFA自身がIFABに加盟したが、当初、5つの組織(英国4協会とFIFA)が2票ずつの投票権を持っていた(全10票)。意思決定のルールは5分の4の賛成であったため、FIFAが反対しても、英国4協会が賛成すれば競技規則の改正は可能であった。
▼1958年からは、英国4協会に各1票、FIFAに4票に変更した。同時に意思決定のルールを4分の3の賛成としたことから、英国4協会だけでも、FIFAだけでも、決められない構造となり、今に至っている。
▼最近のIFABの決定としては、 2018年のビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)の導入が有名である。
日本がFIFAに加盟したのは1929年のことだ。そして、1945年に一度、脱退している。同時期に脱退した国を見ると、ドイツをはじめ、枢軸国が多い。第二次世界大戦の影響であろうことは容易に想像できる。
1950年、日本はFIFA再加盟を果たす。同じ頃、西ドイツ(Bundesrepublik Deutschland、ドイツ連邦共和国)と東ドイツ(Deutsche Demokratische Republik、ドイツ民主共和国)も加盟しており、冷戦を感じる。
細かいところでいうと、当時フランスの管理下にあったザールラント州(Saarland)が独自に加盟していたことも興味深い。後に、ザールラント州が西ドイツに復帰するとともに、ザールラントサッカー協会も西ドイツサッカー協会に合流したようだ。
時代を下っていくと、徐々に馴染みのある出来事も増えていくが、最後の方に、澤さんの雄叫びがある。2011年の女子ワールドカップ、ドイツ大会。おそらくは、アメリカとの決勝戦で、宮間さんが蹴ったコーナーキックから同点ゴールを叩き込んだ直後のシーンだろう。
ワールドカップの歴史
ワールドカップは、このミュージアムで一番の目玉だ。FIFAの歴史とは別に、地下に「ワールドカップ・ギャラリー」と呼ばれる部屋があり、大会ごとに展示がされている。
2011年のドイツ大会で言えば、浦和レッズのレジェンド、安藤梢選手が決勝で着用したユニフォームが収められている。
日本と関係が深いところでは、2002年の日韓大会。こちらも、日本がワールドカップで初勝利をおさめたロシア戦でゴールを決めた稲本潤一選手のユニフォームがあった。
もちろん「ワールドカップ」も展示されている。ワールドカップは世界一を決める大会である。勝者の証として渡されるトロフィーは、その象徴的な存在だ。
「歴史は勝者が作る」ではないが、勝敗を争う競技である以上、勝者の証が目玉なのは万国共通だ。
例えば、マンチェスターにはNational Football Museumがあり、サッカーの母国イングランドの歴史を学ぶことができる。僕が訪れたときは、ちょうどプレミア・リーグとFAカップのトロフィーが展示されていて、来館者は実際に触れることができた(FAカップは持ち上げ厳禁だった)。
同じくマンチェスターにあるオールド・トラフォード(マンチェスター・ユナイテッドの本拠地)でも、プレミアリーグの優勝トロフィーやFAカップ、さらにはビッグイヤー(UEFAチャンピオンズリーグの優勝トロフィー)に対面できる。
何より凄かったのは、スペインのレアル・マドリード。本拠地サンティアゴ・ベルナベウの中にミュージアムがあるのだが、クラブ創設以来獲得してきた、とんでもない数のトロフィーが展示されている。ビッグイヤーだけで展示ができるのはレアル・マドリードくらいだろう。
女子サッカーの歴史
話をチューリッヒに戻そう。
勘のいい読者の方は薄々気付いているかもしれないが、FIFA World Football Museumでは、男女のサッカーを対等に扱っている。例えば、ワールドカップ・ギャラリーでは、部屋の両側に、男子と女子の歴史がそれぞれ展示されている。
しかし、実際の歴史には厳然とした違いがある。
FIFAは国際試合をやるために作られた。つまり、まさにワールドカップを開催するために生まれた組織だと言える。1930年の第1回ワールドカップの開催まで、FIFA創設から四半世紀を要したが、以来、一世紀弱の歴史を積み重ねている。
これに対して、FIFAが主催する女子のワールドカップが初めて開かれたのは1991年のことだ。男子の第1回ワールドカップから半世紀以上が経っている。
ただし、女子の国際大会を開こうという試みはその前からあった。1971年、民間企業の協賛によって、メキシコで大会が開かれていた。FIFA World Football Museumには、その時の大会パンフレットとチケットが展示されており、冒頭の写真はそれを収めたものだ。
なお、前出の「フットボールの歴史」によると、1970年にイタリアで同様の大会が開かれたとされており、メキシコでの大会は第2回だったようだ。このあたりの歴史認識がずれている理由はよく分からない。
ここで思い出したのは、マンチェスターのNational Football Museumでの記憶だ。お揃いのユニフォームを着た女性たちの写真が、”Banned"という言葉で切り裂かれていた。"Banned"とは「禁じられた」という意味である。
第一次世界大戦中のイングランドでは、男子の多くが戦地に赴く中、軍需工場で働く女性たちがサッカーを楽しんでいた。観客からは入場料をとり、売り上げは戦争のための義援金に使われていた。
しかし、1921年、FAは女子サッカーを禁止する決定を下す。「フットボールは女性には不適切」という理由だった。この決定は、1971年まで半世紀にわたって続いた。
2021年、日本では女子のプロサッカーリーグが始まる。
Jリーグでも、史上初となる女性の主審が誕生した。
しかし半世紀前、女子ワールドカップは非公式の大会だった。
そのまた半世紀前、サッカーの母国は女子サッカーを禁じた。
歴史の節目にあって、頭の片隅にとどめておいて良いことではないかと思う。
連綿と続く、サッカーの世界
僕が訪れたとき、ワールドカップ・ギャラリーの最後は2014年のブラジル大会だった。
そこに興味深いものがあった。ボランティアの方のバッジである。
なんの変哲もないバッジがなぜここに?と思ったが、解説を読んで驚いた。
なんとこの方、1950年のブラジル大会、マラカナンで行われた決勝ブラジルvsウルグアイを観に行っていたらしい。そして64年の時を経て、今度はレフェリーをサポートするボランティアをされたようだ。
担当した試合の審判団を見ると、アセッサーに上川徹さんの名前がある。
主審は、アジア最高のレフェリーとも言われた、ウズベキスタンのイルマトフさん。浦和レッズがアジア王者に輝いた、2007年と2017年のAFCチャンピオンズリーグにおいて、2度とも決勝第2戦の主審を務め、とても縁が深い方だ。
世界はサッカーで繋がっていることを感じる。
OWL magazineの主題は「旅とサッカー」である。必然的に、旅の目玉は試合観戦となることが多い。
しかし、実は世界各地でサッカーの歴史が記録されている。ある種刹那的な試合とはまた異なる、ひと味違ったサッカー旅の形として、是非おすすめしたい。
サポーターがライターになった2年間
さて、今日の主題は「歴史を記録する」であった。そして副題に「ライターとしての2年間」とつけた。
これには理由がある。実は、一身上の都合で、2019年5月から続けてきた定期連載を終えることとなった。
そこでここからは、一介のサポーターがライターになった2年間を振り返り、気づいたこと、学んだことをシェアしたいと思う。「サッカーについて何か書きたい」と思っている人たちの参考になれば幸いだ。
▼「書きたいもの」と「読まれるもの」
▼サポーターは何を書くべきか?
▼連載を終えるにあたって
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サポーターはあくまでも応援者であり、言ってしまえばサッカー界の脇役といえます。しかしながら、スポーツツーリズムという文脈においては、サポー…
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