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教科書を読む「蜘蛛の糸」③

伊集院光さんの「山根さんがいらっしゃるなら堀井さんを呼べば?」という有難いお声がけで、ゲストで元NHKアナウンサーの山根基世さんがいらっしゃる回にパートナーとして呼んで頂きました。

自分で言うのもなんですが新人の時からバラエティやら深夜番組やらのナレーションはよく褒められました(笑)。
でもそんなのすぐに詰むこともわかっていた。
この読みの感覚が足りない、できない、ここに行き着かないとと
加賀美幸子さん、森田美由紀さん、そして山根基世さんのテレビからの声をカセットテープに録音して毎日毎日擦っていたのは20代の頃です。

20年経ってその憧れの人が目の前に現れた時、
その距離は1ミリも縮んでなくて
嬉しくて涙が出ました。
何かの道を進む時、絶対に越えられない存在は必要だと思うのです。

では参りましょう。「蜘蛛の糸」

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やがて御釈迦様はその池のふちに御佇ずみになって、水のおもてをおおっている蓮の葉の間から、ふと下のようすを御覧になりました。この極楽の蓮池の下は、丁度地獄の底に当って居りますから、水晶のような水を透き徹して、三途の河や針の山の景色が、丁度覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。

お釈迦様が良い匂いが溢れているなかをゆっくりぶらぶらお歩きになっている前段から、一度行動が止まります。「やがてお釈迦様」のはっ「お佇みになっ」のてっという具合に止まる感覚のインパクトを舌を軽く弾くことで出していきます。「ふと」までは何気ない行動の連続なのです。ですからお釈迦様が蓮池の縁をお歩きになる場面までは大きく息を吸い込みゆったりと読みますが、「やがて」からは少しスピードを上げて視点を絞っていきます。
ごんぎつねでは名詞、動詞、形容詞など意味のある言葉を丁寧に読むことを多くしましたが、この蜘蛛の糸はあまり意味をもたない接続詞などの言葉を立てていくことをしたいです。現実世界には見えない想像で生まれでる世界だからです。例えば「蓮の葉の間から」の「あいだ」にも意味をもたせて。ほんの少しの間からみてるのは数多の罪人が修羅の世界。「あいだ」と後で出てくる「はっきり」も溜めて読みたいです。何があなたには見えているかという絵を想像させる問いかけの時間が必要だからです。
そしてまたこの蜘蛛の糸ではプラスとマイナス、静と動の対比が重要です。よく仏様が蓮の上に乗っている像を見ますが、蓮をという一枚の葉を境に上にはお釈迦様のいらっしゃる幽玄な極楽浄土な世界、下には五濁悪世が蠢動する世界が存在します。スピード、声の硬さや柔らかさで二つの世界をしっかり分けていきましょう。「水晶のような水」「三途の川や針の山」も声の出だしの高さでプラスとマイナスを区別していくのです。

するとその地獄の底に、かんだたと云う男が一人、ほかの罪人と一しょに蠢うごめいている姿が、御眼に止まりました。

「すると」も意味をもたせて一文字一文字表情をのせてゆっくりと。「地獄の底に」もやはりおどろおどろしく読みたいところです。地獄を表現するにはスタンダードにイメージのまま低い地を這うような声で出してもいいのですが、私なら「じごくのそこに」のアクセントを微妙に操作し奇妙さあやかしを演出します。ここでぎゅうっとお釈迦様の目線が発見していく、虫眼鏡でかんだたという焦点にピントを合わせるまでにいろいろな風景や雑念を聞き手に記憶させるための作業です。

このかんだたと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛くもが一匹、路ばたを這はって行くのが見えました。そこでかんだたは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗むやみにとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。

先に述べたように、もしこの文章の中で言葉を立てていくとするなら皆さんはどのワードを選びますか?「大泥坊」「悪事」「善いこと」かもしれません。あえてここでは「それでもたったひとつ」「ある時」「急に思い返して」を選んでみてください。ストレートに発せずに意味をもたせてゆっくり読んでいくやり方です。これらの言葉が仕掛けとなって次に誘導されていきます。蜘蛛の糸のように有名なお話であらかじめ先がわかる文章には有効です。聞いている人とこの先にある含みを共有できるからです。
そして、以前もやりましたが「ある時」は踏切り助走として、アタックをもって。ここから主役はかんだたです。カンダタが主語として語られていきます。蜘蛛を見つける、這っていくのを見る時間足を上げて踏み殺そうとする。ここまでは悪人の主観をいれて、表情を入れた読み方がいいかと思います。そして「いや、いや」の前に少しの間。今まで平気で人間を殺してきたカンダタが一瞬命について考えるの間です。今までと全然違うことをふと思う瞬間ってありますよね。人間の面白いところです。急に可哀想だと思うのです。でもこの「可哀想だ」が難しい。カンダタの「可哀想」とはどういうことなのか。どう読むかいろいろな解釈があるかと思います。読み手の生き方によっても変わってくるでしょう。人は100%変われることを信じるならばカンダタがまるで違う一面を見せる優しさ溢れる「可哀想だ」という読みにしてもいいのかもしれません。私はこの時のカンダタの可哀想という言葉には深い気づきの意味はなかったと思っています。自分とは損得勘定のないところで助けただけ。自分より立場が下の者へのあずかり知らないある種の余裕もある。見下しながらの少しの嘲りをふくんだ「可哀想だ」だという言葉にしていきます。この後のカンダタの仕業もそうであるように、私は何かの一瞬ふとした行動にこそその人の本質が現れる。人の側面の気持ちは努力で変わっても肝の部分は変わらないと思っているからです。あっなんだか希望のない話になってしまいましたね。
次回またです。。

2020、12、3 TBSアナウンサー 堀井美香