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生きることの本質と里山(2022年8月)

施設長からのメッセージ

10年以上一緒に里山に通ってきた児童養護施設救世軍機恵子寮施設長の高田さんから、定例の準備会議の後でこんなメッセージをいただきました。

昨日は貴重な感想や皆さんのお考えを伺った準備会議でした。(中略)里山開拓団の活動を通じて、子どもに留まらず、人がより豊かに生きることについて深めていきたいと改めて思いました。この活動に参加する人々は、その人のご都合や状況により変わるでしょう。ただ、この10年余りの活動を振り返ると、堀崎さんのご努力と世代を超えた子ども同士のつながりが継続に繋がっていると感じます。生きることの本質がそこにあるからだと思います。

「生きることの本質がそこにあるから」という言葉は全く同感で、私の感じていたことそのものでもありました。この活動について外から「子どもたちと自然遊びができて楽しそうですね」なんていわれることもしばしばあるのですが、私にしてみれば里山開拓は「お遊び」なんかじゃない、生きることの本質がここにあるのをはっきりと確信してこの活動を10年以上も続けているのです。

でも、「生きることの本質」なんて大げさなことを突然言われても、何のことを言っているんだろうとためらう人も多いことでしょう。ここでは順を追って私なりに説明してみようと思います。

このボランティア活動には、たくさんの方が忙しい毎日の中時間を割いて「児童養護施設の子どもたちのために」「里山保全のために」と意気込んで参加してくれます。

その志はとても美しく、ありがたいものではあります。

でも、本音ではこう言いたいのです。

「あまりそう思ってばかりいたら、私たちが本当に目指しているところにはたどり着けないですよ」と。

何かしてあげようといいますが一体どんなことができると思いますか?それは自分の思い込み、大人の常識やルール、ネットにあふれる情報なんかを「子どもたちのために」「里山のために」と称して一方的に押し付けるようなことになっていないでしょうか?そんな押しつけが子どもたちの心にどんな影響をもらたすと思いますか?なぜ里山が何十年も荒れたままになっていると思いますか?それは環境を保護してあげる、里山を保全してあげる姿勢があれば解消できるものなのでしょうか?もっというと、「してあげている」自分の姿に自己満足するような本末転倒の姿勢になっていないでしょうか?

私としては、「してあげよう」なんて姿勢は上から目線だったと自ら気づく謙虚さをもってほしいと思っているのです。それは、荒れた山林や子どもの虐待についてなんとなく知っていても、ずっと長年問題を放置したままなんとなく過ごしてきた大人の一人であるという「謙虚さ」でもあります。なぜかというと、そんな謙虚さこそが本当に社会の課題を解決していく力になると考えているからです。

かくいう私自身も、特にこの活動を始めたばかりの頃は、子どもたちや里山のために、何かしてあげようとばかり思っていました。ところが、いろいろと試行錯誤してみて何かをしてあげているふりはできても、結局のところ何も大したことなんかできずに完全に空回りしていること自分自身に気づいたのです。

それでも、なぜ、何もできない自分に気づきながら10年以上も続けられたと思いますか?それは、何かしてあげようなんていう意図とは全く逆に、私の方こそ子どもたちや里山の方から「生きることの本質」を教えてもらっていることに気づくことができて、「私がしてあげよう」ではなく「みんなで一緒になって生きることの本質を探しに行けばいい」と思えたからです。

実際のところ、里山開拓の本当の楽しさを教えてくれたのは、児童養護施設の子どもたちの方です。私は、2006年からひとり八王子の荒れた山林に入り無心になってひたすら道や広場を作って作業をしてきました。汗を流した後の焚火料理や風呂、ビールは極上の喜びではありました。

しかし、子どもたちはそのはるか上を行っていました。木を伐る作業、石を掘り起こす作業そのものを心から楽しんでいるのです。それは、まるで「ハイホー、ハイホー、仕事が好き」とうたいながら仕事をしている白雪姫の七人の小人たちのようでした。大人たちにとってはつらく面倒で汚い作業にしか思えなかったこと、それがゆえに何十年も放置してきたところを子どもたちは心の底から楽しんで作業しているのです。それも、施設長が「普通の人には想像できないはず」とまで言われるほどの家庭環境に置かれて苦しんできた子どもたちが、です。それは私の心を大きく揺さぶる光景でした。

私のしたことといえば、場所や道具を用意して里山開拓の機会を提供しただけのことです。もちろん、子どもたちに里山開拓の意義や価値を説明しようなんてしたことは一度だってありません(だって、荒れた山林を放置してきたのは私たち大人のせいですから)。もしかしたら彼らはかつて普通なら自分を守ってくれるはずの親から受けた虐待などから、生きることのつらさ、残酷さを若くして身をもって感じ、生きることに意味が見いだせなくて絶望の淵に立たされていたかもしれません。

にもかかわらず、子どもたちは今ここでの瞬間は、誰からも何も教えられていないのに、過酷な環境にさえ楽しさを見出して生き抜いていく術をすでにきちんと身に着けているように思えたのです。世間では偉そうな顔をした大人たちが何十年も自ら手を出さず見て見ぬふりをしてきた社会課題への対応さえ、子どもたちは楽しみながらやり遂げていたのです。

これは子どもたちの役割を誇張して言っているのではありません。私たちの活動にあって里山保全を中心になって推進しているのは、間違いなく子どもたちです。子どもたちは里山にいいことをしあげているなんて一瞬たりとも考えたことはないでしょう。でも明らかに、子どもたちが行きたいというから10年以上も里山保全が続いているのです。大人たちはせいぜいその補佐をしているにすぎませんし、大人だけだったらこんなにも続いていなかったはずです。

そしてただ続けたというだけでなく、その結果も目覚ましいものでした。家族と離れて暮らす子どもたちは、里山のことを「自分の家みたいなところかな」「自由な世界」とまで言ってくれます。まだ里山に行ったことのない幼児まで、先輩の話を聞いて「ぼくもサトヤマ行く!」なんて言っているそうです。10年前小学生だった子が退所後就職してからまた里山に行きたいと声をかけてくれるようにもなりました。

里山の生き物についていうと、ヤンバルクイナやトキより希少な絶滅危惧種のミゾゴイが住みつくようになりました。これは生物多様性の大切さを主張してきた行政、学者、活動家のおかげなんかではもちろんありません。子どもたちのおかげなのです。子どもたちが喜んで定期的に通うことによって里山が保全されて、里山のシンボルとされていたミゾゴイにとって居心地のよい環境が生まれたのです。

それだけではありません。里山のたくさんの生き物たちは私の生きることの本質への見方も大きく変えてくれました。冬の里山は一見食べるものなど何もなさそうに見えますが、生き物たちはたくましく生き抜いています。それは都会の常識からするとあまりにも厳しい現実にも思えますが、もしかしたら人間が他の生き物を下に見ているせいかもしれません。

里山の動物たちを自動撮影カメラで10年以上追い続けてきた経験から言わせてもらうなら、里山の生き物たちは、今置かれた環境をありのまま受け入れて味わい尽くし、楽しみ尽くし、自然と一体であることに絶対的な信頼と安心感を抱いて生きているようにさえ見えるのです。

都会の常識からすると社会的弱者とされる児童養護施設の子どもたちが、あるいはか弱いはずの山林の生き物たちが、社会的に強い立場であるはずの大人たちにもできなかったことを実現する奇跡が起きているのはなぜでしょうか?

それは高田さんの言われる通り、「生きることの本質」がそこにあるからと思わざるをえないのです。


生きることの本質とは

ここからは「生きることの本質」についてさらに心の内面にまで掘り下げて描写してみましょう。ここでいう本質とは、その人にとって価値を感じられる受け止め方のことです。絵本作家のかこさとしさんは、『みらいのだるまちゃんへ』という自叙伝のなかで、「生きていくというのは、本当はとても、うんと面白いこと、楽しいことです。もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どもたちから教わりました」と書かれていますが、これこそが氏にとっての生きることの本質、つまり氏が人生の中に見出して大切に受け止めてきた生きることの意味や価値のことです。

私にとっての生きることの本質は何か、現時点での結論から申し上げますと、「都会では見えにくいけれど、里山では子どもたちや生き物たちのようにまっすぐに生きている存在がしばしば見せてくれるもの」であり、「うんと面白いこと」であり、「もし仮に今そうでなかったとしても、目の前の対象をありのまままっすぐに受け入れる姿勢によって、生きるつながりを見出して、生きる行為そのものを楽しく心豊かなものに変えていける」ということです。かこさとしさんが生前語られていた生きることの本質というものが10年以上かかってようやく少し見えてきたようにも感じているのです。

厚労省の調査によると、生涯を通じて5人に1人はこころの病にかかるとされています。こころの病とまでは至らなくとも、時間やお金、情報、義務感、規範などに追われるばかりで、なんだか自分自身の人生を生きている実感がないと感じる人の割合というのは相当な割合に上るでしょう。

「椅子取りゲーム社会」ともいわれる現代都市社会では、勉強、資格、就職、結婚、出世、商売などあらゆる場面で競争が強いられ、自分自身を押し殺して社会のルールに自分を合わせることがしばしば優先されます。いかにやりがいを感じてはじめた仕事であっても、疲れ果てて仕事から帰って寝たらまたすぐ仕事に出かけるような生活が続くと、生きることの意味なんて考えることも実感することもできず、かといって状況を変えることもできずに無理やり現実のなかにやりがいを見出そうとしてドツボにはまっていく・・・勝ち残ったはずのいわゆる「エリート」でさえ、立ち止まったら負けてしまうかも、得たものを失ってしまうかもとメンタルを病んでいきます。そして誰もが自分の利益しか考えようとしない社会になり果てていきます。

また、現代都市社会には「マウンティング社会」という側面もあります。所属する学校・会社・地域や所有する家・車・時計・バッグなどの資産、あるいは自分の知識や暮らし方まであらゆる面に競争意識がはびこって、他人と比べることが気になったり、自分を他人より上位の立場に置こうとしたりする姿勢の蔓延した社会のことです。マウンティングする人というのは、周りに対して自分の優位さを示したり、こうべきだと指示したりがる一方で、自身が普段は組織や権威などに従属して他からマウンティングされてしまっているものです(そんな人のことを私は心の中で密かに「マウンティングゴリラ」と呼んでいます)。大人が子どもに対して指導・教育すべきだ、人間が環境を守ってあげるべきだなんて姿勢が出てくる源泉もしばしばここにあって、そんな姿勢がかえって周りの楽しく生きんとする気持ちをそいでしまっていることになかなか思いが至らないのです。

一方で、里山での子どもたちをよく観察してみると、冒頭に書いたように里山開拓そのものをまっすぐに心から楽しんでいるのです。額に汗してたくましく動き続け、ついに掘り起こして大きな歓声を上げるその姿は、生きる力そのものでした。そこには、悩みがあろうとなかろうと動き続ける呼吸や脈と同じような力強さがありました。それは、子どもたちからが過去への後悔や未来への不安などいつの間にか忘れ去って、今ここにある生きることそのものをありのままを見つめて受け止めている姿にも思えました。そうすることによって生きることがうんと楽しいことに気づいて心豊かに生きられるようになることがすでに分かっているかのようでした。食べること、動くこと、見ること、聞くこと、休むといった生きる行為そのもの――普段なら当たり前すぎて気にも留めずに惰性でやっていること――が無上の喜びに満ちあふれていたのです。

私が子どもたちを見ていてはっきりと理解したのは、生きることの意味なんては外から教えられるようなものではなくて、実は自分自身に生まれながらに生きることそのものを楽しむ力が備わっていて、ただそれに気づいて抑えることなくありのまま発揮させればいいだけということでした。

里山の生き物たちを観察してみても、人間たちと違って、生きることがつまらない、意味がない、他と比べて劣っているなんて考えることはもちろんないでしょう。それは考える知性がないからではありません。私の想像では、生きることが楽しくて面白くて仕方がなくて、生きることに意味がないとかつまらないことなど考えている暇がないのです。さらにいうと、自分自身のためにだけ生きているようにみえて、里山の生き物たちは周りのたくさんの存在を支え役に立つ存在となっています。里山のタヌキはきっと里山にいいことをしてあげようなんてこれっぽっちも考えていません。しかし、自ら生きんとするするために歩き回り便をすることが、植物の種を運び土を肥やして他の生き物を育てます。もっというなら、たまに訪れる都会ですさんだ私たちの心さえ輝かせ豊かなものにしてくれているのです。

実は、私は里山以外にも、マインドフルネスの実践と普及にも2014年頃から取り組んできました。マインドフルネスとは、今この瞬間に、判断や評価を挟まず、はっきりと目覚めた心の状態を目指す、仏教やヨガをルーツとした修練方法です。なぜこの二つに取り組もうと思ったのかというと、心を開く手段という意味ではマインドフルネスと里山開拓のなかに全く共通するところを感じていたからです。マインドフルネスの方は自分の心に深くフォーカスできて日常の隙間時間でも取り組みやすく、里山開拓の方は日常的に行うのは難しいけれど自分自身にとどまらず自然とのつながりまで直接感じつつさらに社会貢献まで実践できます。

私は何年も実践し続ける中でようやく少し見えてきた気分でいたのですが、子どもたちは違いました。子どもたちは初めて里山に来た時からすでにマインドフルネスそのものの心の状態にあったのです。もちろん私から何も教えることなんてしていないのにすでに実践できていて、しかも何かあればすぐ揺れがちな私などよりはるかに心を開いたマインドフルな状態にあることが明白でした。つまるところ、何も分かっていなかったのは私自身の方だったのです。

そして里山の生き物についても、私は山中でこんな体験をしたことがあります。早朝に昔山道だったところの藪を分け入って進んでいたところ、5頭ほどの鹿の群れに出会いました。距離は数十メートルほどでした。みんな一斉にとも私に気づいて体を静止して同じように首を曲げ黒い目で私をまっすぐ見つめていました。私がほん少しでも動いたら一足飛びに逃げようと、私の挙動を全身全霊を込めて凝視していたのです。そのまっすぐな視線に私の方も全く動くことができなくなりました。きっと30秒ほどかと思うのですが時間が止まったかのような長い時間がたったときに、森の中で枯れ枝か何かが落ちる音がして緊張と静寂は破られ、鹿たちは大きく飛び跳ねて駆け足で去っていきました。

それでも見つめ合っていた間、私には、鹿の心のなかが手に取るように分かりました。きっと鹿にとっても私の心のなかが分かったはずです。それは、今この瞬間に評価や判断を挟まずに意識を向けてはっきりと覚醒した状態、つまりマインドフルネスそのものだったのです。鹿はマインドフルな心の状態を、誰かに教わらなくとも生きるために元々備えていたのです。

里山のことばかり話してきましたが、もちろん里山でなくとも、気づきの機会は至る所にあると思います。ただ、里山では、大人も子どももなく、お金や知識、社会的立場や権威の有無なんてもちろん関係なく、それどころかここにいるあらゆる存在が里山という大きな運命共同体のなかにあり、本来は今を生きようとしている存在として対等であることに気づきやすい状況にあります。

そこで大切な姿勢は、何もできない自分や何もしてこなかった社会に気づくこと、虚勢を張らずに謙虚になること、周りと対等な目線で接すること、ありのままを受け入れることでした。そうすることで、何かしてあげようという上から目線のときには目を向けようともしなかったことに気づけるようになるのです。里山や子どもたちが示してくれていたのは生きることの本質というのはありのままの自分自身の中に見出せるということでした。そんな気づきがあってこそ、生きることの本質が感じられる場、すなわち、私たちの目指す「ふるさと」をみんなが一緒になって創り上げていくことができると考えているのです。

東京里山開拓団では、入会する人に、里山や子ども対応の経験なんて一切求めていませんし、里山や子どもたちのためになにかしてあげようなんて思わなくていいですよ、むしろ里山の中に自分の好きなことを探してください、というようにしています。ボランティアなんだからがんばろうと肩ひじ張ったり、大人だから何か子どものためにやってあげなくちゃなんて思ったりしなくていいと思っています。それはゆるい運営をしているからではありません。そうではなくて、子どもたちを「人」として受け入れて、子どもたちと一緒になって目の前の里山そのものに直接触れ、つながりを楽しみながら里山に通い続けてほしいからです。そして願わくば、みんながそこに生きることの本質があるのを実感して通い続け、それがさらに多くの人たちの心や多くの生き物たちの暮らす里山環境を豊かにしていく――そんな活動であり続けられたらと思っているのです。

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