里山に学ぶ生き方~タヌキ(2022年3月)
キャリアについての講演
2022年3月に、東京都の雇用支援事業を行っている東京しごとセンターさんからの依頼で、「キャリアとしてのNPO」というテーマで講演を行いました。
私がこれまでに大学や企業などで行ってきた講演というのは、ボランティア活動や社会貢献活動そのものについてばかりでした。ところが、今回は私自身のキャリアや人生観を初めて語ることになって、引き受けたのはいいけれど何を話そうかと一か月くらい前からあれこれ思いを巡らせていたのです。
正直に言うと、これまで自分自身について話すことにはかなりためらいがありました。実際、自分の親兄弟や近しい友人にさえボランティア活動をしていることをほとんど伝えていなくて、ネットで環境大臣賞表彰のことをネットで知った友人から水くさいといわれたところでした。どうしてそんなに憚られていたのかというと、キャリアというのは自分自身にとっては大切なのだけれど、他の人には触れてもらいたくない、あるいは暗黙の了解でお互いに触れるべきでない領域、例えるなら財布の中身を他人に伝える・聞かれる類のことのようについ最近まで思っていたからです。
しかし、そんな私の認識を変えたのはコロナ禍でした。これまで当たり前と思われていた世の中の常識が大きく揺れ、それまでいいと思われていたキャリアや人生観にも疑問符が付くようになって、多くの人が自分のキャリアや人生に戸惑いを感じているように見えました。これから社会に出ていく大学生たちにとっては特に戸惑いが大きいように思われました。私自身、キャリアや人生の試行錯誤だけは人並み以上にしてきましたので、どこかお役に立つところがあるならばと思うようになったのです。
今回の講演では、これからボランティアに関わってみようか迷っている人たちに向けて、ボランティア活動の意義や人生への影響について語ることにしました。東京に転職してきたばかりの中年サラリーマンがなぜ一人里山に通うようになったのか、そこで何を感じてどう考えてボランティア活動を立ち上げるに至ったのか、私自身が、ボランティア活動をどうキャリアや人生の中に位置付けてきたのか、自分の生き方について里山から何を学んできたのかといったことです。
タヌキの生き方に学ぶ
ここでは、最後の里山から学んだ生き方について切り出してご紹介します。講演ではだいたいこんな感じでお話ししました。
――キャリアについて学ぶというと、社会的に成功した人のやり方に学ぶというのが普通と思います。しかしそれも固定観念なのかもしれません。私自身は里山の動物たちの生き方を知るようになってそこから大きな刺激を受けています。
私は15年にわたって里山に自動撮影カメラを設置して定点観察をしています。おそらく撮影した写真は数千枚になります。そこにはタヌキが一番たくさん写るのですが、タヌキというのはこんなポリシーをもって生きているように私には見えます。
「無駄に競争しない」
自動カメラを見る限り、仲間同士で縄張り争いすることもなく、タヌキ・ハクビシン・アナグマが一つのねぐらで異種共存することさえしています。私たちがたまにやってきても少し前に立ち去って、私たちがいなくなるとまた元通り里山で暮らしています。弱肉強食なんてよくいいますが、里山の生き物たちは無駄な競争などしません。できるだけ競争を避けながら生きているようにさえ見えます。
「自分の目でよく観察する」
タヌキはため糞といって仲間たちが一か所にふんを積み上げる習性があります。それはただ公衆トイレにみんながやってくるイメージでとらえてはいけません。タヌキたちは自分の五感をフルに生かして仲間のふんをじっくりと観察しているのです。誰がいつやってきたか、元気そうか、何を食べたか。それは自分が生き残るための最重要情報を懸命に収集している姿でもあります。タヌキたちは自分の目で周りをよく観察しながら厳しい自然環境を生き抜いているのです。
「心地よい居場所を常に探す」
大きな木の根元とか崖の片隅とか目立たなくて雨風をしのげる場所にタヌキたちは巣を作ります。例えば、台風で大木が倒されると、いろんな動物や鳥たちが視察にやってきて、木陰で雨風がしのげるところがあると誰かがすぐ巣を作ります。動物たちは心地よい居場所を常に探しながら生きているのです。
無駄な競争しない、自分の目でよく観察する、心地よい居場所を探す・・・ふと気づいたのは、これらは私自身が普段の生活のなかでできていないことばかりということでした。
会社では無駄な競争ばかり。自分の目で直接周りを観察せずに、氾濫するネット情報くらいで分かったつもりになる。今いる所をなんとか死守しないととばかりにしがみつく・・・
そうだとしたら、タヌキの生き方をまねしてみたらいいのではと思い立ちました。私自身の日常の中で、無駄な競争しないようにしてみたのです。そうしたら周りに協力してくれる人が増えてきまして、今里山仲間は80名ほどになりました。自分の目でよくよく観察するようにしてみました。そうしたら身近なところにたくさんのご縁があることに気づけるようになりました。マインドフルネスの第一人者カバットジン博士に居酒屋で遭遇するご縁もあって今普及活動にも取り組んでいます。心地よい居場所を探すようにしました。放置されて荒れていた山林のなかにツリーハウスを作って、私の心をすっかり解放してくれる場所ができました。
いま、私は里山からたくさんのことを学びながら、私自身にとって、周りの人にとって、社会にとって心豊かになれる環境がどんどん出来上がっているのを感じているのです――
タヌキの生き方を観察する
一通り講演を終えると、会場に来られた20代から70代まで30名ほどの方々にどう響いたかなと不安な気持ちがよぎりましたが、たくさんの質問の手が終了の時間までずっと挙がりましたことにほっとしました。
慣れない講演の疲れと解放感に包まれながらうちに帰りつくと、すぐいつものように風呂とビールです。やがて体が温まってほろ酔い気分になると、私の頭を駆け巡り始めたのはこんな疑問でした。
日本にはタヌキに化かされる昔話がたくさん残されていて、そこには人間と同じような知性や感情をもったタヌキが登場し人間と対等かそれ以上にやりとりします。なぜ、昔の日本人はタヌキをまるで人間のように取り上げたのでしょうか。
以前はタヌキが身近だったからかなくらいにしか考えていませんでした。でも、15年ほど里山通いしてきた今の私にはそんな理由なんかではないとはっきり分かります。タヌキの昔話というのは、タヌキの行動をつぶさに観察し続けてきた者だけが持ちえた洞察力の結晶なのです。
タヌキは一度夫婦となれば一生添い遂げるという言い伝えがあります。私はそれが本当なのかなんとか確かめたいと思っているのですが、確かに二匹そろって行動するタヌキの姿は里山のカメラによく映っています。夫婦で過酷な運命を受け入れつつも協力してしなやかに生き抜いているように見えました。
それに比べると、人間というのは、空虚なプライドにこだわって、喧嘩だの不倫だの離婚だの訴訟だのと無駄に気力をすり減らし、やがて虐待や貧困まで引き起こして、本来は抱えなくてもいい問題を自ら作り出すやっかいな生き物です。何も分かっていないくせに、自分たちこそが一番物事を分かっているという思いたがる動物なのかもしれません。おそらくは今の人よりも昔の人の方がタヌキの生き方をずっと正当に評価していて、人間の愚かさを戒めるために昔話に登場させて語り継いできたのではないでしょうか。
さらに、酔いが進むと、こんな疑問も私の頭に浮かんできました。――いったいなぜ、タヌキは里山で仲間と協力しようと思ったのでしょうか。もっというと、タヌキは自分のことをどうとらえていて、どんな生き方をしようと思っているのでしょうか――もちろんこんな疑問への回答をタヌキが直接答えてくれるはずがありませんので、完全に私の妄想の世界での自問自答が続きます。
もしかしたら、タヌキにとっての自他の境界というのは人間よりずっと外側にあるからではないでしょうか。人間のように外界と隔てる皮膚より内側こそが自分であるという認識なんかもっていなくて、そもそも自分と外界というのは切り離すことのできない一体不可分の存在ととらえているのではないでしょうか。
タヌキもいつかは死にやがて土に帰り、そして新たな生命として生まれ変わります。永遠に里山という大きな生命体の一部であり続けるのです。いや、全体の一部であるなんて認識さえなくて、一見競争や捕食の関係にある存在も、自分を取り巻く環境でさえも他者ではなく、それらは自分そのものなのだと認識しているのではないでしょうか。タヌキにとっては、家族や仲間のタヌキも、同じ巣穴に入り込んでくるアナグマもハクビシンも、ごちそうのドングリもミミズも、そして周りの草木も大地も大空も、みんな含めて自分自身なのだと。
もしそうだとしたら――タヌキは人間のように孤独感にさいなまれることなんてきっとないはずです。自分はひとりでは存在しえない、自分が孤独な存在と考えること自体が妄想であるとさえ考えているのかもしれません。
もしそうだとしたら――タヌキは人間のように無駄に殺し合ったりすることなんてきっとないはずです。平和で穏やかな青空の下に無差別な爆弾の雨を降らせる人間たちとはいったいどこまで愚かなんだろうと里山から憐れんでいるのかもしれません。
こんなふうに酔っ払いが語ってみても所詮は戯言、理性ある方々にとっては、現代の人間社会ではやはり人間は人間、動物は動物、自分は自分、他人は他人なのだからと思われるかもしれません。
そう思われる方々には、ぜひまずは周りの人間世界をじっくりと観察していただきたいのです。私には、自他の境界を持たないようにしている人は周りをどんどん受け入れ、周りにどんどん受け入れられて、新たなご縁を築いてよりよい人生や社会を築いているように見えます。一方で、競争社会を勝ち抜かねばとか、みんなにいいねと言われたいとか、自分探しをしなければといった固定観念に凝り固まって、自分のことばかりで一杯一杯になっていく人からはどんどん周りが離れていくように見えます。
つまるところ、私がこんなにもタヌキの観察にはまっているのは、私自身の愚かさ、そして人間の愚かさを白日の下にさらしてくれるからなのです。そしてもしタヌキのように生きることができたなら、取るに足らないちっぽけな自分へのプライドやこだわりなどあっさりと捨て去って、周りとの本当のつながり方を取り戻せるような気がしてならないからなのです。
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