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【化学】肉あらば 迷わず食らう 老いてなお

 「ダメだ~。『オイニ~』が限界やった。」春恵さんは本当に悔しそうだった。「いやいや、『オイニ~』と言わせただけでも革命的じゃないか。どういうシチュエーションだったの?」「フフフ…それはヒ・ミ・ツ」・・・社長秘書は春恵さんの同期入社だった。むろん有能ではあるが、ルックスで人選したとしか思えない弁天様だ。きっと彼女の美貌と色気に、もし本当に弁天様の小指の先ほどでも芸が加われば、わざわざ当社に入らなくても、役者として充分にメシを食っていけただろうと本気で感じる。今日も、まるで何かの企業ドラマの演技ではないかと思われる雰囲気を醸し出し、「本当にそれでよろしいのでしょうか。これは社長のご下命ですが。」といった冷徹な科白で、社内中のオス犬たちを翻弄し続ける。虎の威を借る狐もここまで至れば天下無敵。またこのメギツネが、幽艶ぶりと淫猥ぶりをカクテルにしたようなオンナなものだから、鬼に金棒。コネ採用では無さそうだが、それ故にあの半端ない気の強さが、ますます彼女の性的なニオイを際立たせる。ニオイと書いて、オイニーと読む。
 そんな彼女をネタにしたゲーム、名付けて「女狐にどこまで下品なコトバを発音させられるか選手権」の開催を考案したのが、本当に下品な春恵さんだったのだ。さすが、自分で企画立案しただけのことはある。私の力量では到底「オイニ~」など不可能であるどころか、その発想すら浮かんでこない。実際に目の前で彼女の湿った唇から「オイニー」という声が漏れるその瞬間に立ち会いたかった。その吐息もきっと芳しさこの上なき「オイニー」だったことだろう。
 「いつだって美人はズルいのよ。チヤホヤされながら育つから、性格までキレイになる。容姿も性格も良ければ、さらに人気に拍車が掛かる。歩いてるだけでオトコにとっては一服の清涼剤になる。その間に私はこうやって他人を妬みながら、どんどんイヤなオンナに転身していく。これからの会社生活でも、彼女には好循環、私には悪循環しかやって来ない気がするわ。」・・・いつも通りの春恵さん節に「せっかく選手権のチャンピオンに輝いたんだから、もう少し明るいコメントしろよ。」と私が返すと、「アラ、ヤダ~、こんなことで私が落ち込むとでも思ってるの?生まれつき美しいなんて自慢にも何にもならへんやん。私の下品は努力によって磨き上げられたものよ。」と、このお天気模様の急回復もいつも通りの春恵さん節だった。社長秘書にも悩殺されてはいたが。春恵さんには春恵さんの美しさがある。この私の好意には真摯たるものがあった。
 
 「そんなことよりさあ、此間、お爺ちゃんと合コンしたじゃない。あの後、ちょっとした事件があったのよ。」“お爺ちゃん”というのは本当のお爺さんではない。若いくせに猫背なので、彼女が勝手に付けた渾名だ。寡黙なので目立たないが、仕事は緻密なので、数年の地方営業を経ただけで即座に本社へ呼ばれた若手の出世株の一人であった。“合コン”というのも語弊がある。彼女が学生時代の友人と三名で飲むことになり、折角だから職場の男衆も誘ってみようという彼女の思い付きにより、その日は偶然ヒマだったお爺ちゃんと私が合流したという程度の話である。結果的に、春恵さんのグループから1名が残業で来られなくなり、2対2の合コンのような形になってしまったという顛末だ。それに、お爺ちゃんには、そもそも学生時代から交際していて、結婚まで約束している女性がいた。
 ところが、である。今にして思えば、様子が変だった。「店は予約されたんっすか?」と春恵さんへ問い、彼女が首を横に振るや否や、「オレ、押さえときますよ。オススメの焼肉屋があるんスよ。」と何やら前のめりなのである。まあ、ここまでは後輩の気遣いだと受け止めたら済むが、その焼肉屋さんが長岡天神だったのだ。なぜ繁華街の河原町とか、オフィス街の烏丸とかではなく、敢えて住宅街の長岡天神なのか。確かに美味しかったけれど、ここまで人目を忍ぶような如何わしい酒宴ではない。
 「ズバリそうなの。私たち『楽しかった、ありがとう』って解散したつもりが、こっそりあの二人だけで二次会に突入。しかも、これがいきなり彼のアパートよ。コンビニで買ったシャーベットを冷凍庫にも仕舞わないまんま、ムラムラが最高潮に達したお爺ちゃんとR子は一夜限りの過ちを犯したってわけ。翌日にお礼のメールを送ったら、『ナイショにしておいて』と言いながら、明らかに嬉しそうなR子の返信があって、目下、本件の取扱いをどうしようかと拙者思案中であります、ハイ。」・・・私は、シャーベットの溶けていくプラ容器の汗と共に、あのお爺ちゃんもまた汗をかきつつ、ねちっこくR子さんの乳輪を舌でなぞり回している映像を頭の中で再生しては興奮していた。まさに「R指定」の傑作。精力全開のお爺ちゃん。自らの猫背を矯正するかのように、激しく腰を弓なりに反らせていたことだろう。それに連動して揺れるR子の乳首は、鍾乳洞の石灰石の如くツルツルの光沢を帯びて突起している。
 若い爺さんは、寡黙だが、実は“肉食動物”の代表格だったのだ。「だって、分かるでしょ?周囲には『今、忙しいから』とか何とか言って、たった5分の打合せも断るくせに、ちょっと下請け業者さんの営業担当がカワイイ子だったりした瞬間、全ての業務を放棄してまで商談の時間をつくって席を外す。ああいう奴なのよ、お爺ちゃんは。彼の本性を見抜けなかった私がアホやった。R子は『今度、彼とユニバにでも行っちゃおうかしら』なんて張り切ってる。『ジジイには婚約者同然のカノジョがいてる』なんて、私、今更よう言わんわ。」
 
 男女の化学反応には、人によってそれぞれの「スピード」がある。爺のスピードが速く、私のスピードが遅いのも、両者が異なる物質だからなのだろうか?教えて!女王様。
 「鍾乳洞の石灰石は、水とCO2の反応後、それがCaCO3に戻ったもので、長い時間を要する化学反応なの。火の燃え方だってそうよ。アンタたち、経験則上、解るでしょ。『導火線』――これは色々なタイプがあるけど、紙紐に薬品を染み込ませたものね――それと『線香』――これはお墓や仏壇に立てる線香ね――この双方に同時に点火すると、導火線の反応のほうが遥かに速い。これはどうしてかって云えば、ご先祖様はお線香の煙と香りを召し上がるそうだから、ゆっくり燃えないと消化不良を起こすでしょ。・・・何よ?私だって偶にはこういうことを云うのよ。まあ、この辺の領域は倫理の先生に委ねましょ。
 化学反応のスピードは、変化量を時間で割るのが基本的な指標。プリントの『図Ⅱ』をご覧なさい。――アンタ、それじゃないわ、図Ⅱのほうよ、導火線の話はもう終わったの!まったく鈍臭いわね!――同じ量の塩酸を入れたAB2つのビーカーを用意する。それぞれに同じ質量の大理石を入れるけど、Aには3つにカットした石を、Bには1つを丸ごと入れる。するとAのほうが石の溶けるスピードが速い。これはスピードが石の表面積に関係している。次に『図Ⅲ』をご覧なさい。今度は塩酸の濃度を変えて、Aを濃く、Bを薄くする。それぞれに同じ質量かつ同じ表面積のマグネシウムを投入して比較すると、Aのほうが激しく反応する。次に『図Ⅳ』をご覧なさい。溶液の温度を上げるほど反応が速いことが一目瞭然でしょ。これは、温度の上昇に伴い粒子のエネルギーが大きくなるから、反応に必要なエネルギーを持った粒子の数が増えるということなの。で、反応に必要な最小限のエネルギーを『活性化エネルギー』と呼ぶわけ。
 ハイ、ここまでは小学生の理科レベルよ。だって、化学反応が表面積と濃度と温度に比例することくらい、日常生活で知っていることでしょ。紅茶を甘くしたいとき、角砂糖をポンポンと落とすより、グラニュー糖をサラサラと振ったほうが、明らかに溶けるのが速いでしょ。けど、これがアイスティーだったら、どちらも溶けず、ガムシロップでなければ通用しない。そういった現象の科学的根拠を解明したってこと。ここまでじゃあ、ハッキリ言ってそんなに意味がない。けど、アンタたちよりハイレベルな人間は、化学の法則を単なる紅茶で終わらせずに、実に様々な文明発展に応用するの。
 さあ、チャイムまで残り1分半あるわね。もう1つ叩き込むよ。『図Ⅴ』をご覧なさい。水素と酸素は混合しただけでは何も反応が起こらない。しかし、この中に白金の粉末を入れると『水』が生じる。このように、自分自身は変化せず、反応の速さを変える物質を『触媒』と呼ぶの。同じ過酸化水素を入れたAB2つの試験管。Aのみに二酸化マンガンを投入すると、液の表面が焦げ茶色に変化し、白い煙を発し、『酸素』が検出される。この場合、二酸化マンガンが触媒というわけね。今日はここまで。さて、アンタたち、どこまで覚えてる?せめて生きているうちに勉強のスピードは導火線レベルに上げなさいよ。線香は死んでからでも十分に味わえるんだから!」・・・「まったく鈍臭いわね!」と叱責された男子生徒は心做しか悦んでいた。女王様からの注目を浴びたくて、わざと「図Ⅰ」を開いたのだろう。相変わらず小聡明い野郎だ。この女王様の握り締める真っ赤な蝋燭の炎に、性的反応の導火線を燃やさない男子生徒は、この教室に誰一人として居なかった。
 
 蓋し、お爺ちゃんはもともと異性に抱く欲望の表面積が広く、濃度も温度も高く、そこに春恵さんという触媒が加わったものだから、彼がR子さんと化学反応を起こすのは、いちいち教科書を確認するまでもない必然だったということだろう。えっ?私?私なんか、二人が溶け合う試験管に揺れ動くエロスの煙の「オイニー」に、クンクン鼻を寄せてはハアハア息を荒くするくらいが限界のつまらぬ男である。長岡の天神様、化学の勉強が苦手な私をどうか見捨てずにお守り下さいませ。やはり道真公と縁深い牛を食してしまった時点で、“草食”の私も“肉食”のお爺ちゃんと等しく罪深いのだろうか。
 化学の女王様、秘書の女王様、この世の中は多彩な女王様に富んでいるが、当時高校生だった私にSMプレイの魅力を教えてくれた女王様はたった一人だけ・・・つづく

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