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【冬休み】今オマエ 妬まれるほど 眩しいか?

 私が30過ぎくらいまでの間は、大阪から東京までの寝台急行がまだ「生存」していた。正月の帰省の度、底冷えの京都駅から飛び乗った体を満席に近い三段ベッドに捻じ込みながら、「5分に1本というペースで新幹線が運行しているこの時代、一体どんな人種がこの夜行を利用しているのだろうか」と、私自身がその人種の一味であるにもかかわらず、不思議に思ったものである。東京から関西への里帰りではなく、その逆ルートは新幹線ですら混雑した試しが無いのだから。
 錆付いたオルゴールみたいな車内チャイムの後、やや二日酔い気味の頭上を車掌さんの優しく懇切なアナウンスが黎明と共に射し込んでくる。「皆様、おはようございます。ゆっくりとおやすみになられましたでしょうか。今日は12月31日、土曜日、只今の時刻は6時。列車は時刻通り運転致しております。あと3分程で大船駅に着きます。お出口は左側、2番ホームです。大船を出ますと、横浜には・・・」私は洗面所で歯磨きをしつつ、横浜の次の品川までに目を覚ますルーティンに入る。世間は28日が御用納めと決まっているのに、当社は30日の午前まで通常営業。しっかり働いた後は、しこたま飲む。社内の大会議室でサンドイッチや寿司や一升瓶を囲み、大忘年会へと突入するのが毎年の習わしだ。夕方前には散会となるが、そのまま帰るはずもなく、有志での二次会が深夜まで続くのだから、大晦日をまともな体調で迎えたことも無ければ、元旦にようやく大掃除を始めるような生活にも徐々に違和感を抱かなくなってしまった。
 品川駅に着くと、大きなトランクを両手で何とか宙に浮かせ、京急の改札口まで階段を急ぐ私と同じ30過ぎくらいの女性で溢れ返っている。冬のボーナスで羽田から海外へ飛ぶのだろう。渋谷駅に着くと、応援グッズでパンパンに膨らんだトートバッグを息切らす両肩にぶら下げて、ライブハウスの開場を待つ私と同じ30過ぎくらいの女性で溢れ返っている。贔屓のアイドルの年末カウントダウンに少しでも良い場所を取ろうとしているようだが、車掌さんの教えてくれた通り、今はまだ朝である。道を隔てた反対側では、パチンコ屋のオープンを心待ちに、貧相な中高年の男たちが行列を成している。お互いがお互いの行列を「オマエも物数奇な人種だな」という眼つきで観察している間を私が通り抜けていくのだが、こうして両側を見比べてみると、やはり「たとえ冬空の下であっても、遊ぶためなら、並んでまで待つ」という行為は男のほうが似合う。女にはどうかプライドを保っていてほしい。女は男のように成り下がってはならない。男女は平等だからといって、女が男の真似をしてプライドを捨てる必要はない。「男女がホントに平等だと、世の中は色々とややこしいだけよ」と、今にも美春さんが路地裏から煙草をふかしつつ出て来そうな気がする。この土地に巨大なパチンコ屋が産声を上げる前、かつて雑居ビルだった頃の4階が美春さんと私がバイトをしていた店だった。

 「ねえ、100万円あったら、アナタ何が欲しい?貯金とかローンの返済なんてダメよ。あぶく銭なんだもの。手元に自由に使える100万円、さあ、何を買う?」と、いつもの休憩室で美春さんに訊かれた事をふと思い出す。と同時に驚いた。高校生だった当時も即答が出来なかったのであるが、全く私という人間は卒業してから干支が一周しても一向に成長が見られず、三十路を迎えて一層答えに窮してしまうのだった。10万円ならパソコンとか、1,000万円ならマンションの頭金とかいう思いが巡るものの、100万円って意外と現実味に乏しいというか、平々凡々たる生活には馴染みの無い単位なのだ。「アナタって、ホント、物欲が無いのねえ。えっ?私?そりゃ、新しいピアノよ。100万円じゃ、グランドピアノは無理だから、アップライトね。あっ、テンちゃん、ちょっと聞いてよ。この子、100万円あっても欲しいモノが無いのよ。どうかしてると思わない?」ミャンマー人のテンさんが世間話に加わる。「ボクの一番欲しいギターは20万、残り80万は実家へ仕送り、以上オシマイ。」「まあ、分かりやすい。テンちゃんはねェ、ギターよりも歌が上手いんだから、20万で自分のギター買うくらいなら、それを私に払ってみなさいよ。何よ、授業料に決まってるじゃないの。きっと私のピアノ伴奏で歌ったら、もっと上達するわよォ。」
 彼が世界的なロックシンガーを本気で夢見ていたことは、お気に入りの黒い革ジャンからも匂っていた。彼が歌手になったとの情報は本日現在も確認できていないが、母国での活躍ぶりはこの休憩室での会話の5年後に私自身が現地で目の当たりにすることとなる。7年半にわたり日本で稼いだバイト代で、ヤンゴン郊外にプール付きの家を建て、母親と住み、自らの経営するナイトクラブに若いバンドを出演させている。英語と日本語の混じった手紙で招かれるまま好奇心1つだけで空港に辿り着いた夜、テンさんの周囲には30人くらいの子分衆が取り巻いていた。ミャンマー人なのに「ヤンキー」と呼ぶのもヘンだが、皆、派手なロンジーを少し崩した形で腰に巻き、近くに銃を持った軍人が警備していようと、構わぬ様子で商店の伸縮フェンスに凭れ掛り、周囲に鋭い眼つきを飛ばしている。すでに地元ではちょっとしたボスとなっていたGパン姿のテンさんが、そのヤンキーたちに「日本で一番世話になった友人だ」と紹介するや否や、まるで凱旋パレードのような歓声と共に派手なバイクで空港から彼自慢の豪邸へと連れられた思い出は生涯忘れまい。目指していた姿では無かったとしても、彼は十分に眩しいヒーローでありスターだった。私は一緒にバイトをしていた当時から、彼がロックシンガーになれるとは思っていなかった。しかし、なってほしいとは本気で思っていたし、まずもって一生懸命だったものだから、仕事内容のみならず日本語の微妙なニュアンスまで丁寧に教えていた。それが高校生の私に積める功徳の限界だったが、信じてはいない成功を応援するという一種の「偽善」をも美しさに変えてしまうような若い青春が、ここ宇田川町のド真ん中で光っていたのは間違いない。上座部仏教の国らしく、彼の弟のミョウさんは出家して僧侶となっていたが、この人もかつては私のバイト仲間だった。チャイティーヨー・パゴダからバガンの遺跡まで、何もかも専属ガイド付きの手ぶらで観光させてもらったのも、渋谷の青春の報いだったとしたら、これほど有難き事は無い。

 あの頃に照らすと恥ずかしくなるほど、今の私はつまらない労働に明け暮れている。いや、労働をつまらないと評するのは会社の一隅を照らす任務に対して甚だ失礼である。つまらないのは労働そのものではなく、若僧の私が狼狽するほど愚鈍極まりない職場の先輩社員の面々だった。「その案件、一旦ストップ。待っておいて。」と制止した30分後には「あの案件どうなったの?まだ出来てないの?」と私を混乱に陥れる“ストップウォッチ師匠”。資料50枚を1つに綴じる作業を命じられ、わざわざ意味も無く20枚と30枚に分けてから、後でその2つを合わせようとしていたところを上司に見つかり、「何のため?」と問われ、「このほうが失敗を防げるので」と答えている手元ですでにページの順番を間違えている“バラバラ殺人師匠”。賞味期限間近の商品を勝手に後輩たちの机に並べ、強制的に給与から買い取らせる“押し売り天引き師匠”。30過ぎだった当時の私が配属された部署は、漫画にも描けないほど非効率的かつ非論理的な40前の中堅層に毒され、会社の業績の足を見事に引っ張っていたのだった。
 正月の間はあの労働から解放される。今日はその初日だ。私は祝杯と迎え酒を兼ねて、コンビニでカップ酒を購うと、それを片手に暫く懐かしい道を散策することとした。そういえば、ミャンマーに旅立つ時、テンさんのご家族に喜んでもらおうと、日本らしい手拭いやミニ凧なんかを浅草でひと通り買い揃えたが、日本に残っている他のミャンマー人のバイト仲間からは「日本酒が一番ウレシイ。こんなウマイ酒は向こうに無い。預け入れ荷物なら制限は無い。ビンは割れるし、普通酒のパックで十分満足だから、兎に角トランクいっぱいに詰め込んでけ。」と予想もしなかったアドバイスを受け、事実その通りだった。お多福顔の手拭いよりも安かった清酒が、行く先々での歓待を招く福となったのである。
 109を分岐点として、左が道玄坂、右が東急本店通りとなるのは、渋谷の象徴的な風景だが、実はもう1つ、私が勝手にこれのミニチュアだと思っている風景がある。宇田川交番を分岐点に、左が宇田川通り、右が井の頭通りの続きとなるY字路だ。ちょうど交番ということもあり、本家の「109」に因んで、私はこの詰所を「110」と名付けていた。無論、偶然なのだろうが、これがまた本当に109と同様、銀色の円筒形を基調とした建物なのだ。そしてカップ酒が心地よく躰に浸透した頃、111号室の我が家へと無事に到着した。

 東京という街は三が日から飲食店も娯楽施設もその多くが終日営業である。1年のうち、この連続3日間くらいは家でゴロ寝しながら酒とテレビにどっぷりと脳ミソを漬け込む生活にせねば、何もしなくて良いと割り切った休息期間の意味が失われてしまうという気で過ごしていたのだが、中学時代の同級生から誘いを受け、突っ掛けに褞袍の儘、まさに正月でない日常と変わらぬ雰囲気の居酒屋へ向かうと、私と同じくらい暇な連中が何と男女6名も集まっていた。飲み会も労働と同様、結局のところ、その中身よりもメンバーによって愉快にも不快にも転じるものだと思い知る。卒業以来会っていない者同士も居たというのに、乾杯して5分も経たぬうちに全員が微笑ましい渦に包まれていた。
 この土地に巨大な居酒屋ビルが産声を上げる前には煙突があり、かつての私たちは銭湯に通っていた。「そうそう、この辺に湯船があってな。こんな感じで浸かってたんだ。」「じゃあ、あの辺りに富士山のペンキ絵があったのか?」「いや、アレ、実は富士山じゃないらしいよ」「ええっ~?富士山以外の山なんか、オレ、遠足で行った高尾山しか見たことね~よ」「そういや、オマエ、高尾山で迷子になっていたよな。あの一本道で遭難できるって、一種の才能だぜ。」・・・当たり前とは言え、皆が中学時代とは見違えるほど大人になってはいたが、童心に帰った正月は気疲れしない会話を弾ませていた。
 6名のうち1名は社長になっていた。大人になったとは言え、他の奴らには私と大差ない成長しか認められなかったが、人を使う立場となっていた彼女だけには風格というものを感じざるを得なかった。中学なんてものではなく、保育園の頃から知っているが故、余計に現在の彼女が凄いと思ってしまうのだろうか。成績も良くなかったし、部活もやってなかったし、都立高校を中退してしまった後、噂すら耳にしなくなった子が、今私の目の前でセンス光る衣装に身を包み、梅酒のロックグラスを傾けている。その梅酒のような琥珀色のタイブラウスと富士の冠雪のように真っ白なパンツ姿はモデルのように輝いていた。特に美人でもなく、冴えなかったあの子は、ブティックの経営者に転身していたのだ。「これでも偶にはパリに行くのよ。」驚きの連続だった。「ウチのママ、ふた言目にはアナタの話をするのよ。ホントよ、今でも。『元気にしているのかしら?絵は描いているのかしら?あの子はそこら辺の凡人とはちょっと違う子だから大事にしなさいね。』って。少しは娘の心配しなさいよ、って言いたくなるけど、私はこうなる前に心配ばっかり掛けてきたから、心配するのも飽きたんじゃないかな。」・・・私は今、凡人であり、絵も描いていない。
 「ママだけじゃないの。ワタシもそうなの。ワタシ、今でも夢にアナタが出てくるのよ。小学校の6年間、展覧会でずっとアナタの絵がトップの特選。私は結局一度もアナタに勝てないで佳作のまんま。世の中にはこんなに絵の上手い人がいるのかっていう驚きもあったけど、それよりも子供だから単純に悔しかった。嫉妬してたわけよ。ワタシ、高校辞めちゃったあと、勉強しなおして、美大も出て、色々頑張ったけど、今は画家になんか成れないって分かってる。でも、趣味でもいいから個展を開くくらい大きな目標を持ってるの。
 美大でね、毎日毎日、裸婦のデッサンやってるうちに、この裸婦に服を着せてみたくなっちゃってね、次々と斬新なファッションが頭に浮かんでくるの。で、ワタシ、洋服をデザインするのが好きなのかもって気付いたんだけど、デザイナーの道も厳し過ぎて挫折しちゃった。けどね、他人の作った服を仕入れて、客にコーディネートするのだったら、ちゃんと稼げる職業になるって思ったもんだから、今、こんな感じ。こんな感じだけど、絵は諦めてないのよ。しつこいでしょ。だからね、足元にも及ばない相手だったアナタには絵をどうしても続けて欲しいの。美大じゃなくて、普通の大学を出て、今はサラリーマンをやっていても、絵だけはどんな絵でもいいから描いていて欲しいの。自分にとってお手本だった人に、お手本を見せ続けてもらいたいの。んもう、服って言ったら109しか知らないようなウチの店の若い子に“色使い”ってやつを教えてあげてよ。最近、ウチみたいな小さい店にも銀座のクラブのホステスさんが出入りしてくれるようになったの。今こそウチの服の勝負時なのよ!」・・・梅酒のグラスも彼女もすっかり汗ばんでいた。30過ぎとなった今、私のほうが彼女の放つ眩しさに嫉妬していた。

 100万円あったら銀座の高級クラブなど行かず、この居酒屋に200回通うだろう。それが私に似合った生き方だ。まるで産卵期の鮭の如く何度も「おかえり」と言われるほど、祇園のスナックには通い詰めてしまう私だが、そんな私の性格をもっても、モノの適正価格が麻痺した銀座の太客になろうという感覚は無い。役員クラスの方々の鞄持ちの端くれとして、一度だけ会員制の一流店に随行した経験があるが、昔の常連だったという往年の映画俳優の写真や愛用品を並べては、これ見よがしに西陣織の帯を銀座結びにしたママの自慢話が延々と続くだけだった。過去の栄光に感服する演技をしながら、大した銘柄でもない水割りを口に運ぶ役目に困憊した記憶だけが頭から離れない。愕然としたのは、齢を重ねたママの脇で、もっと齢を重ねた元ママが人形のように動かず、ただじっと黙して座っているだけの光景である。目鼻立ちがそっくりなので、ママの母親であることはすぐに判った。かつては新橋芸者だったそうで、色白で小綺麗な老婦人なのだが、それが却って薄気味悪い。話に入り込むわけでもなく、死んでしまったのではないかと客が疑い始める絶妙なタイミングで娘の話にこっくりと首でも壊れたかのような相槌を打つ。領収書の金額にも目玉が飛び出たが、この腹話術のような母子の動きも強烈な印象だった。たかが鮭が酒を飲むだけの場所にいくら勿体振ったステイタスを付与したところで、不況を当たり前として育った世代には楽しみ方が理解できないのだ。ただ、あれはあれで必要な人には必要な空間なのだろう。あくまでも凡人の私には、あの場所に社交を求める必需性が無いというだけのことである。

 100万円あれば、今の私なら美春さんにピアノをプレゼントするだろう。そのほうがずっと値打ちがあることは言うまでもない。そんなことを考えながら、私は想像と色鉛筆だけでアップライトピアノの絵を描いてみようとしていた。絵を描くなんて何年ぶりだろう。ピアノの絵というのは難しい。基本的に黒と白しか使わないからだ。ところが黒と白だけでは「絵」にならない。他の色も薄く塗り重ねていき、上前板や鍵盤蓋の広い漆黒の領域に、そのピアノを置いている部屋の内装や光の反射が映り込んでいる様子を表現しないと、絵に質感が出ない。実物や写真を見ることなく、多種多様な色を織り交ぜて、黒い塊の楽器に魂を入れていくという意外と奥深い作業に夢中になっているうち、私の冬休みが終わった。・・・つづく

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