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【現代文】我ひとり 昔の人は いま伊豆こ

 「大丈夫。実りそうもない恋に貴様が四六時中胸を痛め続けるのは、今からせいぜい数週間、長くても数ヶ月程度のこと。安心したまえ。せいぜい数年、長くても十年経てば、いま貴様が好きで好きでたまらないその人に対しても『私って、どうしてこんな人を愛していたのだろうか』と感じざるを得ない日が必ずやってくる。だから、いつも通り独り酒を呑んだならば、ひと晩、ふた晩だけ、誰も居ない部屋の中で気持ちを吐き出して、思い切り泣きたまえ。その翌日からは、悩むヒマがあったら、貴様がその人に焦がれる前から夢中だった別の事に集中したまえ。そいつはその人と違って貴様を裏切らない。」・・・夢の中でお告げがあった。お告げの態ではあるけれど、夢とて自分自身の日頃の思いが攪拌されて妙な形で映像化される現のドラマ。これは私が或る女を好きになり冷静さを保てずに居ることを自覚する度、自分に言い聞かせている言葉そのものだ。誰かの有名な台詞という訳でもなく、経験則から学んだことに過ぎぬが、否、そうであるが故、我ながらつくづく格言と認めて止まない。失恋を繰り返し、誰とも結ばれずに歳をとった人間だけが達することの出来る境地だ。
 
 高校時代の現代文の鬼教師による読書感想文の宿題。その13作目の粗筋は、私の記述によると次のようなものだった。
 「自分の性質に厳しい反省を重ね、その息苦しい憂うつに堪え切れないで伊豆への一人旅に出た青年は、紺飛白の着物に袴、肩には学生カバンをさげた二十才。修善寺、湯ヶ島温泉へと中伊豆を南に下る道中にて、旅芸人の一行に出会い、その中に白い肌と豊かな髪をもつ踊子を見つけ、青年は彼女に心を惹かれていく。一行と親しくなって、旅を共にする間に、彼らがどのような人々か知ることができた。踊子は印ばんてんをまとった若い男・栄吉の妹で、まだ十四才だという。踊子からあふれる清らかさは青年の傷ついた心を暖めてくれた。しかし、彼も帰らなくてはならぬ日がやってきた。東京へ向かう船の中で、青年は踊子との別れに涙するのであった。」
 高校1年、16歳だった私も恋愛においては自分が弱者であることをすでに承知し、憂鬱だったのだろうけど、憂鬱の「鬱」まで漢字ですらすらと書ける程の憂鬱には至っていないようだ。“修行”の足りない小僧だった私が残した鉛筆の文字を懐かしく見入る。「心を暖めてくれた」と書いているが、鬼の減点マークが付いていない。「温」でも「暖」でもどちらでも誤りではないことを三十年以上も前の自分自身から学ぶ。そして「大丈夫。三十年後の貴様も踊子に踊らされるだけで、その心に温暖が訪れる気配はちっとも無いけれど、とりあえず踊り疲れずに生きているぜ。」と鉛筆の文字に向かって呟く。
 「読みはじめ」は「92年12月20日」、「読みおわり」は「92年12月21日」、「延べ時間」は「3時間」。当時は大江健三郎がノーベル文学賞を受賞する2年前。日本人唯一のノーベル文学賞作家だった川端康成の名作を、きっと私は宿題だから仕方なく読んでいたに違いない。粗筋に引き続き、私の感想文は小気味良いほど予想通りに無味乾燥なものだった。
 「『伊豆の踊子』といえば、私の知らない古い世代から映画でも親しまれてきたことはもちろん聞いているし、私もまた観たことがあります。そのスクリーンもしくはテレビ画面を通じて、私は『昔の恋愛物語』だという印象を受けただけでした。しかし、作品に描かれた一人ひとりの人物像を思い浮かべる中で、作者のねらいは単なる恋愛だけに集中するものではないと思われました。
 旅の青年は、孤児根性で歪んでいると自分を叱りつけていますが、私は、孤独に悩む人間こそ、挫折を許さない強い信念の持ち主だと思います。自分に厳しい人間であることが、他人に優しい人間をつくることにつながり、つらく苦しい時に歯を食いしばって生きていけると思うのです。現代社会において、青い海や広い草原を旅することによって都会のごみごみした生活を忘れ、自分の心を清らかにすることを好む人が多いように、旅は彼がさびしい気持ちを慰めるために思いついた唯一の方法だったのかもしれません。そして、踊子の美しさだけでなく、その澄んだ内面に、彼は心の傷をいやされ、思いをよせたのではないでしょうか。」
 ・・・紙の無駄と評しても過言ではない感想文。無味乾燥にも程がある感想文。そう、私は昔から恋愛小説に感情移入できない人間なのである。恋愛感情はあるのだが、餘にもモテなさ過ぎて、世間一般の「恋愛」に共感するため必要な最低限の条件すら具備していないのである。生まれつき盲目の人に桃色がどんな色かを知る術がないのと同じこと。私は16の齢にして「盲目の人が視覚以外の感覚を磨いて立派に生きているように、私も恋愛以外の能力を磨いて生きていけば済む話ではないか」と割り切っていた。しかし、そうであったにせよ、他に何か書き様が無かったのだろうか。「学生風情が旅芸人風情に心奪われても無駄なこと。一高生にもかかわらず、そんな道理も分からない。これぞ恋愛が盲目的である証。まして一高生でも何でもない阿呆な私は、これからの人生において幾度となく“別れ船”の上で涙し続けることでしょう。」って、川端に田端を掛けてこれくらいのことは述べられた筈ではないか。まあ、バタヤンは古すぎだとしても、「踊子」の物語なのだから、せめて村下孝蔵には触れて欲しかった。
 とは申せ、翻って見方を変えれば、神様は斯様な私なんぞも見捨てることなく、「惚れた女性と一緒になれる」という能力以外のそれについては、それなりに豊富にお与え下さったということ。懐メロの知識も高校生のレベルでは無かった。好きだから自然と覚えてしまうのである。無駄な恋に落ちようと、歌って泣けば復活できる能力を授けられたのだから、文句を言わずに独りで生きていけば良いのである。たとえ16歳と雖も、当時の私はそれくらいのことまで咀嚼した結果、無味乾燥に徹した可能性すら考えられる。しかし、そうであったにせよ、その「根性の歪み」を「青年の孤児根性」に重ねて語るような試みがあってもよかったのではなかろうか。事実、「孤独に悩む人間こそ、挫折を許さない強い信念の持ち主だ」って、なかなかの線には辿り着いているのだから、この折角の分析をもう少し深掘りして欲しかった。まあ、16歳の読書感想文にそこまで求めるのは酷なことか。
 
 それから十年、26歳となった私は「そろそろ一人で生きること、独りで居ることに慣れなくてはいけない」と真剣に考え始めていた。父も世を去った。父同然に私を育ててくれたご近所のおじさんも亡くなった。生きている人でさえ別離した。春代も失った。もう二度と恋人と呼べる女性に巡り合うことはないだろうと悲観していたが、その悲観は正しい事実を捉えていた。この時から更に二十年を経た46歳の私が――村下孝蔵の没年齢に達した私が――未だに“彼女いない歴”を更新中の状況である故、二十年前の予想は単なる「悲観」を超えて「客観」そのものだったという次第である。一人での過ごし方が人一倍巧みなくせに、人一倍寂しがり屋で人恋しがる自分と向き合い、「さて、これからどうしよう」と腕を組むも、さすがに26歳にもなって迷うネタでは無いと自分が甚だ情けなくなる。則ち十年前、16歳の頃には自分の弱き心の潰し方がまだ甘かったのだと知った。十年前に潰し切っていれば、もう少し一匹狼としての自己を確立した26歳になっていたことだろう。丸めた紙屑も丸め方が弱ければ、まるで生命を宿しているかのように音を立てて元に戻ろうとする。振り返れば、千春さんへの片想いが始まったのが16歳の頃、小春ちゃんとの苦い思い出は26歳の頃だった。その後、性懲りも無く36歳の頃まで春恵さんや秋恵と苦い思い出を作り、春奈との縁が切れたのは46歳の頃だった。16歳から相も変わらず紙屑を丸めては元に戻し、また丸めてはまた元に戻している。今の私が『伊豆の踊子』の感想文に何か綴るとしたら「踊り子さんには決して手を触れないようにお願いします」の一言に尽きるだろう。
 
 一方、父はモテたのだろうと思う。16歳で高校を中退するまで遊び人だったと謂うし、その後の人生も似たようなものだ。職人になったけれど金が無く、母のアパートに転がり込んだのが26歳の頃だったのではなかろうか。私が幼かった頃は他所に女が居て、父親が家に帰ってこない異常な空気感を子供心にも察することができた。この頃の父が36歳くらいだったのではなかろうか。子煩悩のくせに家庭を顧みなかった。母は泣かされていたし、私は常に母の味方だったが、かといって父を嫌っていたわけではなかった。あれだけ無尽蔵の愛情を注がれたら、父の嫌なところが隠れてしまう。そして私が高校に合格した頃になると、ようやく46歳にして私の父は完全に落ち着いた。落ち着いた後の父は十年も持たずに55歳で他界した。――モテた父だろうと、モテない私だろうと、結局のところ「人一倍寂しがり屋で人恋しがる自分」と向き合わなければならない点で、確実に血が繋がっている。
 私の26歳は長野県のセールス時代だった。青森に次ぐ名産地である信濃の林檎が収穫期を終える師走中頃、得意先であったスーパーのバイヤーさんのご尊父様が逝去され、葬儀に参列する。黒いネクタイぶら下げて、上野から新幹線で長野駅へ、そこから営業車に乗り換えて高速を飛ばす。日曜出勤のせいか、塩尻の街がいつも以上に遠く感じられた。バイヤーさんには世話になっていたし好きだったから何ら苦には受け止めていなかったが、それはそれとして会葬者の大半は食品メーカーの担当者あるいはその上司である。今まで一度も面識の無い人――息子としか面識の無い人間、下手したら息子とすら会話したことの無い人間――に送り出されるというのは、ご本人様にとって一体どのような気分なのだろうか。故人とは無関係にも等しい人間が一斉に略喪服姿で集合してしまう――まったく世の中には様々な“職業病”があるものだと感心していると、これまでに見たこともないようなスケールの儀式が始まった。なんと読経するお坊さんが九方も着座される盛大な葬儀だったのである。その中で私は神妙な表情を保ちつつ、「両側4名ずつを脇に控えさせる、あの真ん中のお坊さんの袈裟は実に見事なものだが、ああいうのをまさしく大袈裟と云うんだろうなあ。無論ああいうのは特注品で、それ専門の特殊な会社で織り上げているのだろうなあ。比べるつもりは毛頭ないけれど、私が坊主を務めるしかなかった私の父の葬儀とやらは、気を遣わない身内だけのイベントで、寧ろ幸せだったのかもしれないな。ところで、バイヤーさんのお父さんもあの世でウチの父さんの出迎えを受けていらっしゃるのだろうか。いや、待てよ。死後の世界は明らかに我々の世界よりも人口が多い超巨大都市だから、ウチの父さんなんて『いや~、ウチのバカ息子が毎度ご厄介になっています』とか何とか言う挨拶も儘ならないのだろうな。いや、待てよ。あの世ではそんな心配は無用であって、たとえ大勢の大衆に紛れ込んでも目的の人と逢えるコミュニケーション技術が開発されているかもしれないな。そうなるとあの世には住民票も要らないってことだろうか。いや、待てよ。そもそもバイヤーさんのお父さんは天国の住民なんだろうけど、ウチの父さんは地獄の住民だろうから、あの世でも住む世界が異なる。うん、たぶん残念ながらこれが正解かもしれないな。」といった、自然なる疑問と素朴なる邪念に満ちたことを考えていた。私の背後では、某大手食品メーカーに宮仕えする面々が「おい、オマエんとこ、いくら包んでんだ。『何が?』って、とぼけるなよ。香典だよ。数万円上乗せしたって、棚落ち防ぎだと思ったら安いもんだろ。」といった誠に下品な会話を繰り広げている。立ち続けることに疲れた私は、芥川龍之介の『枯野抄』を思い浮かべていた。
 直会は無かったが、各メーカー全員そのまま月曜日以降の営業回りに備えて塩尻に宿泊だったため、勝手にお祭り騒ぎが始まった。私は中学の頃、国語の先生に褒められた宿題の日記を胸の中で復唱しながら、ウーロンハイを呷っていた。
 「冬休みだからといって、家でゴロ寝をしていたかというと、そうでもなかった。おじさんが突然亡くなり、母とぼくは毎日のようにご近所にあるその家に通いつめた。おじさんを亡くしたことはつらいが、ぼくは喪中にもかかわらず、原色をたっぷり使ったお目出たい年賀状をおじさんの家にも送ったばかりだったということがもっとつらかった。年賀状なのだから、1月1日まで出すのを待っていればよかった。葬儀のとき、お坊さんは『おじさんはにぎやかな人だったし、お祭り騒ぎをしても構わないのだ』と話された。お坊さんの口からこんな言葉が出るとは思わなかったので、びっくりした。」――これが数え13歳の正月の時分だったが、二十年後の33歳の時分になると、私は毎日がお祭り騒ぎのような息苦しい部署で四苦八苦していた・・・つづく

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