日本人の「礼儀正しさ」と「イジワルさ」についての、ナルシシズムの観点からの解釈

2023年中に講談社現代ビジネスで好評だった記事として「日本人は世界一礼儀正しい」が「世界一イジワル」だった…「自分の利益より他人の不幸を優先する度合い」を測る実験で「日本人ダントツ」の衝撃結果」が紹介されていた。
https://gendai.media/articles/-/119449?imp=0

大阪大学社会経済研究所で行われた実験で、次のことが示された。投資に関するあるゲームを行った場合に、一対一で競合する場合に、日本人の被験者は、アメリカ人の被験者と比べて、自分の利益を増やすことよりも、相手の利益を減らすことを優先する決断を行う割合が高かったという。
もっとも、たとえ自分の利益につながったとしても、相手が得る利益に比べてあまりにも自分が得られる利益が少ないと感じられた場合に、そのゲームへの参加を拒否する傾向は世界中で認められるようである。しかし、その割合が日本人では高い。

この現象は、「ナルシシズム」という精神分析などで用いられる概念を利用することでより明瞭に理解することができる。「ナルシシスティック・パーソナリティー」とは、現実的な利益よりも、相手が強くなって自分のナルシシズムが傷つく機会が増えることが耐えがたいために、それを避けたいという心理的な欲求を優先してしまう人々である。そうであるならば、自分の利益を減らしても、相手の利益が増えないような行動が選択されるだろう。
「出る杭は打たれる」という心理であり、出る杭を応援して一緒に利益を得ることよりも、それを抑え込んで自分よりも心理的に優位に立つ存在が出現する可能性を無くすことが優先される。このことは、この数十年、日本において良いアイデアが出ても、イノベーションにつながるような事業につながりにくいという現象と、関係がありそうだ。

しかし、「相手より優位な立場を確保したい」というナルシシズムの誘惑は、日本人にのみ認められるものではなく、世界中のどの地域でも、人類に普遍的に認められる事態である。「ナルシシズム」という言葉からして決して自然な日本語ではなく、ギリシャ神話の登場人物に由来する用語を、精神分析の創始者のフロイトが、深層心理学の探求に導入した結果が伝えられているのである。
一方で、どのような価値を実現している人物により多くの名誉を与えるのかについては、それぞれの地域・時代で異なっている。たとえば、資本主義の考えが本当に徹底していれば、心理学的な抵抗を克服して、より多くの利益を得ることが望ましいという価値観を身につけている人が多くなる。冒頭に紹介した実験では、アメリカ人で、日本人よりもそのような価値観を身につけている人が多いことが示されている。
野球の大谷選手やサッカーの久保選手のような優れたスポーツ選手の活躍が報道されている。彼らが「野球やサッカーが上手」という価値を重視するコミュニティに属し、自分もその価値観を内在化させ、ひたすらに「相手よりも野球やサッカーで良いパフォーマンスを発揮する」ことを通じて、現実的な名声・利益を獲得するのと同時に、ナルシシズムの満足を得ることを目指していることは明らかだ。ナルシシズムは否定的なだけのものではない。そして、日本人はアスリートの場合でも、現実的な利益に影響される割合が小さく、ナルシシズムの満足を優先する傾向が強いように思われる。一方で平均的な社会人にとっては、自分が野球やサッカーを行う能力が重要な影響を与える機会はほとんどなく、その能力の向上を真剣に目指すことも、普通はない。

そうであるのならば、冒頭の実験のような「自分の利益を減らしても、相手がより多くの利益をえないことを多くの場合に優先する」行動を生み出してしまう、日本社会が優先している価値とはどのようなものだろうか。
今年は1月1日から北陸地方に大変な災害が発生した。これだけ多くの災害が起きる国であるから、そのような緊急時にしっかりとした対応ができる人や組織は尊敬されそうである。
その他によく指摘されるのは、稲作を中心とした村落共同体で、十分な質・量の収穫を確保するために、耕作地(田んぼ)を共同で管理する必要があった事情である。農村では、そのような活動に適した価値観を身に付けた人物が尊重された。

伝統的に日本人が尊重していた価値観は、几帳面さや対他配慮(自分を殺しても、相手や所属している組織のことを優先する)である。
しかし、この場合に日本人は、「より多くの利益・名声を得たい」という願望を感じた時に、心理的なジレンマに陥ってしまう。「私的な利益や名声を求める」人物は、日本人のコミュニティにおいて軽蔑や処罰の対象となる可能性が高いからだ。
日本的なコミュニティに留まりながら私的な願望を達成するためには、まずはその願望を隠して、ひたすらに所属集団に献身する姿勢を示すべきだった。そうすることで、所属集団の中での格付けを上げることができる。そして、所属集団全体で利益の分配が行われる場で、格付けが上位にあるという正当な理由で、長期的により多くの利益を確保することが目指されていたのである。
このような集団運営を続けるためには、私的な利益追求の欲求をあからさまに示す者は処罰しなければならない。そこには長期的には報われることが期待できない人による、短期的な利益を上げる人への羨望の思いが働いていることもあるだろう。また、所属コミュニティ内で、将来的に自分より上位の格付けを得て、より多くの利益を確保する可能性のある人物を潰しておくという判断も働いている。「格付け上位を維持する」ことは、実生活上のメリットが大きいのである。このような集団運営に適応することを通じて、冒頭の実験に示されるような、「自分が利益を得る機会を失っても、競合相手が利益を得る量を減らす」行動を、より積極的に選択する日本人の行動様式が作られ、再生産されていくようになる。
しかし、社会や経済情勢の変化によりこのような形でコミュニティに参加できない人、あるいは参加しても長期的な利益の分配を得ることができない可能性がある人々が増えてしまっている。

几帳面でよく相手に配慮する行動様式は、日本が近代化を目指した明治の頃や、終戦後の経済復興を目指した時期には大変有効だった。まずは国民に貯蓄を促す。その貯蓄を、戦争を含めた国策を完遂するために国が集約して運用しやすいように管理する。その国策運営に協力した程度に応じて、上位の格付けを与え、その格に応じて名誉と利益を分配するようにする。

しかし、十分に国が発展した後で、どっぷりと資本主義経済が優勢の世界の中に組み込まれながら、間接的にしか自らの欲求や願望を認識・表現することが許容されないような社会のあり方が持続していることは、極めて非効率で、この数十年の日本社会が陥っている政治的・経済的困難と無関係ではない。

日本人の伝統的な心性を、現代の国際政治や経済を動かす原理となっている個人主義(これは好き勝手にしてよいという意味ではなく、基本的人権の考え方を尊重し、市民としての義務を引き受けることも含んでいる)にどのように適応させていくかという課題に、安易に「オモテとウラ」の使い分けというその場しのぎをくり返すだけではなく、真摯に取り組んでいくというのが私たちに必要なことだろう。

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