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ベンウィートリー『A Field in England』ネタバレ考察・感想・レビュー

本作は、清教徒革命時のイングランドを舞台にしたフォークホラー。爆発音が鳴り響く戦場という「現実」に背を向け、ビールを飲むために酒場を目指す4人の旅路を描く。とはいえ、現実逃避的な楽しいロードムービーなどではなく、暗いトーンで展開する寓話的な物語。その証拠に本作では「現実」が一切登場しない。映画開始と同時に、「現実」は長大な生垣の向こう側に押し込まれ、「現実」から生垣(境界)を越えてやってきた異界とも呼べるこちら側(Field)に物語は終始する。

主人公は、臆病で確固たる自己を持たない気弱な占星術師。師匠である錬金術師の重要な書物を盗み逃亡中の男オニールを捕らえる任務を負っている。このオニールも主人公と同じ師を持つ錬金術師で、なぜか地面に刺さっている木の杭を引っこ抜こうとすると急に現れ、独裁者のように一行を支配する。そして、「宝がこのFieldのどこかに眠っているから探せ!」と言うオニールの命令で、占星術に長けた主人公はその場所を占い、他2人が奴隷のようにそこを掘り、もう一人(実はオニールの手下)が看守のように見張るという関係性が生まれる。

この隷属関係の始点となるのが、キノコ(おそらくトリップする系のマッシュルーム)。4人の中に紛れ込んでいたオニールの手下が旅の途中でキノコ入りスープを振る舞うのだけど、後に奴隷のようになる2人は喜んで食べ、主人公は断食中(自身の教義・信仰に忠実な証)だから食べない。『ミッドサマー』でも支配下に置く始点として麻薬が役割を担ったように、本作でも支配ー被支配の関係を築く重要アイテムとして登場している。

信仰に忠実な主人公と欲に溺れるオニールは同じ師を持ちながら真逆な性質を体現しており、同一人物の表裏関係のようにも読み取れる。それは、生垣の向こう側で起こっている同一国内の表裏の争いとしての清教徒革命にそのまま転換されるわけで、分断された個としての内面的争いと個への収束(真っ二つに割れた鏡と戻そうとする仕草)、臆病な主人公の確固たる自己の獲得、三位一体的な絆の構築といったミニマムな「成長」が、犠牲を出しながらも1人の人間へと集約していく物語は清教徒革命を経て共和制へと移行するイギリスの変化を表象した存在の誕生のようにも思えて非常に寓話的だった。

説明するのが嫌いだと語るウィートリー監督らしい作風は、本作でも『キルリスト』『サイトシアーズ』以上に遺憾なく発揮されており、ついにわけのわからない悪夢的トリップ世界にまで到達していた。ポリゴンショックのような点滅スピードで細かなカットをつなぎ合わせるクライマックスの悪夢的映像は、マジで空間に飲み込まれてしまうような感覚になった。ここまで不安定な気持ちにさせられたのは『シェラデコブレの幽霊』以来かも…。それ以外にもクライマックス付近の怒涛の映像的カッコ良さと異様さと突き放すような気持ち悪さはめちゃくちゃテンション上がった。過度な説明は映画の価値を貶める行為でしかないのだから、ウィートリー監督にはこの姿勢をずっと貫いて欲しい!

ウィートリー監督が影響を受けた映画・ドラマとしてタイトルが挙がっていたものはほとんど見たことがなかったけれど、新藤兼人監督『鬼婆』が挙がっていて日本人として嬉しくなった。あれも本作のFieldのように空間を象徴的舞台に仕上げた作品だったし、確かに雰囲気が近い気がする。

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