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なにを見て、どう思うか

兼業としてあれやこれやをやっていると、自分の現在地を知るのがちょっと難しく感じる時がある。

いくつかのことをやっているのだから、自分としてはその全てにいくら本気だったとしても、専業の人がそのひとつにかける熱量や時間には敵わない。
進度、深度…その進み具合や手の入れよう、それが質か量か、早さか丁寧さかは場合によるけど、そういうのは、まあ大体の場合は専業の人には及ばない。

でもやっていることとしては同じものなのだから、時には悔しく思う。
私で言えば、自分と似たトピックの記事を書いていてもっとPVを稼いでいるライターとか、質も量もとんでもない仕事をこなすカメラマンとか、絶妙な訳を素早い納期でやってのける翻訳者とか。
悔しかったり、嫉妬…嫉妬なのかな、でもやきもちっぽい感情を抱くこともある。

こういうとき、「彼らは専業でやってるプロ。自分だってプロとしてやってるけど、兼業だから」と割り切ることもできる。割り切るっていうか、開き直りのようだけど。

でもそれでは、兼業で複数のことに触れている意味が薄れてしまう。と、私は思っている。

私は自分ができることを、自分が頑張れる分野でやるようにしている。それがカメラであり、執筆であり、翻訳。そして分野は、まあ様々なんだけど、音楽、スポーツ、ワイン、飲食…あともう少しコムズカシイものたち。

ただ十分にできているかというと、NOだ。もっとやれる余地はいくらでもある。
そういう時に、誰の何を見るか。

私は、カメラで、執筆で、翻訳で、何を目指しているのか。
それを見据えていれば、誰かと比べる必要は無い。

でも一方で、お手本は欲しい。自分の居場所を知るときに、尺度を使うことは悪いことじゃないと思う。
その時に、プロとかアマとか、専業とか兼業とかの尺度で人を見てやいまいか。
でも良いものを、良いやり方で、良い具合にやっていれば誰でもお手本になるのか。そうやって小さく落ち着いた人とか、しぼんでいった人を、他人としてどう見るのか。見るのを辞めるのか?

とことん自分に向き合うとき、自分とだけ向き合っていいのか。
自分が何者なのかとか、どこにいて、どこに行きたいのかを考える時、内だけ見ていて何が見えるのか。何も見なくていいのか。

みたいな。
結論は無いんだ。雑記だし。

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