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ego

結局は自分ひとり。

この言葉は実に正しいと思う。
家族、伴侶、子ども、恋人、友人、ボス、同期、部下…あらゆる人と共に過ごす社会的動物である我々は、人とのつながりを大切にして生きる生き物だ。
だがヒモでつながれているわけでもなければ、有機的に結合、癒合しているわけでもない。
別個の存在だ。

大きく言えば、民族とか国民とかも想像の産物だ。地球の表面にネットを張って生きるのが得策だと考えた我々がこしらえた結び目や模様に過ぎない。
我々は別個の存在なのだ。

体毛を頭頂部と陰部と腋窩を除きほぼ捨て去り熱拡散に長けた体を手にし、脳容積を順調に増やした我々は、二足歩行の代償として腰痛という種族病に苦しみながらも、この星で一等賞の知能を手にした。だがそれをもってしても、真に単独では生きていけない。
種として社会的動物になった以上、我々人は人とかかわらずに生きていくことができない。社会に生きる以上、チームを意識できない奴は生存できない。

常に家族を思い仕送りを続ける出稼ぎ労働者はとても強固なつながりを家族と持っている。核家族化した都会の人々はそんな彼らに比べると家族とのつながりは弱い。インターネットの普及発達がこれまでの別種の糸としてネットワーク構築を担い始めて30年くらい?経ち、顕在化してきた。個々人が際立ち、個々人のネットワークの重みが説かれて何年経つだろう。

個人レベルのネットワークをつくりあげる時、我々は情や損得勘定を判断基準にする。それの是非は問わない、というか当然のことだ。
そこには選択がある。家族を軽んじて友人とのつながりを選ぶこともあるだろうし、逆に外部との付き合いを遮断して身内、内輪にこもるつながりの作り方もある。環境に依存することは多々あるが、結局は選択は個々人にゆだねられている。
そして、その選択は他者に迷惑をかけない限りどこまでも個々人の自由だ。そういう意味でも我々は自分一人だ。どこまでも、なにをしても添い遂げてくれる人は(いるかもしれないが基本的には)いないと思った方がいい。たとえいま傍にいてくれる人がいて、その人が今後も傍にいるとしても、どこかの時点で必ず貴方は一人だ。

そして、あらゆる選択には責任が伴う。

瞬間瞬間で、貴方は選択に伴う責任をただ一人で背負うことになる。選択そのもので他者に迷惑をかけるとき、また選択に伴う責任から逃れようとしたとき、そういった行為やそうした人は「自分勝手」という言葉で非難される。

自己の利益のために選択を続けるのが人間だ。
とは言うものの、周囲の迷惑を顧みずに進むことが人のあるべき姿かというと、違う。
なぜなら人は一人であると同時に社会的動物だからだ。チームを組んだことにも責任は発生するし、ネットワークを結んだ相手にも程度の差こそあれ責任は生じるものだ。このバランスを考えずにいると、早晩その人はどちらかに転げ落ちる。
つまり本当にひとりぼっちになってしまうか、人とのつながりに絡まってしまうかだ。

どれくらい選択の責任を負うか。どれくらいの責任なら自分は負えるのか。

そこんとこわかってますか?
人を見ていると、そして自分を振り返ると、よくわからなくなるんですよね。ときどき。

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