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ブリジャートン家〜黒人公爵と選択の物語〜

Netflix史上最多視聴数となっているらしい『ブリジャートン家』ファーストシーズン全8話を見終わって、思いついたこと。主に黒人公爵の魅力と、作品のテーマになっている「選択」について。

・基本は『ムーラン・ルージュ』のようなファンタジー時代劇

本作は一応、王族や貴族がいるような時代のイギリスを背景としたラブロマンスではあるが、多くの記事で言及されているように時代考証に基づいたものではなく、かなり自由に作り上げられている。
例えば、話題になっている黒人貴族・王族や、舞踏会の音楽がビリーアイリッシュだったりと、バズラーマンの『ムーラン・ルージュ』の世界観を思い出すような作品になっている。

特に黒人貴族という設定(ちなみにこのような差別のない世界について説明が作品内でちょっとだけ言及される)は、今でこそ新鮮であるが将来的な自然なことになっていくと思っている。そんな感じで現代を象徴するような作品の一つだといえるんじゃなかろうか。

一方で、そのような突飛な要素の数々とは裏腹に、あらすじとしては主人公のダフネが舞踏会デビューして、理想的な夫を探すという結構伝統的なストーリーが主軸になっている。
それと並行しつつブリジャートン家の兄妹達が抱えている身分違いの愛や女性の独立といった葛藤や、かっこよすぎる黒人公爵や他国の王子様とか割とお約束的が結構多かったりもするので、そこらへんのこの時代ならではの「これが見たかった」的な話もちゃんと盛り込まれている。

・黒人公爵の魅力

本作で最も目を引いたのは、黒人公爵サイモンだった。
公爵というかなり上位の爵位+俺様キャラ+衣装もイカしている+ボクシングが趣味のセクシーボディ+ツンデレもアリという完全無欠なキャラクターで、主人公ダフネよりも輝いていたかもしれない。

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ところで、黒人の方が貴族の格好していると個人的に思い出してしまうのは、やっぱりPRINCEを思い出してしまう。父親との確執とか、印象的な雨のシーン(PRINCEの代表曲はPurple Rain)はちょっとオマージュがあんじゃないかと勝手に思っている。

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・ブリジャートン長男はV6岡田くんに似ている

本作を見た人はみんな言いたくなっていると思うが、主人公ダフネのお兄さんアンソニーはV6岡田くんにめちゃくちゃ似てる。

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・作品のテーマ=選択の物語※ここからネタバレ

全話見終わった後、特に終盤に差し掛かるにつれて、この作品は「選択」がテーマになっていると考えるようになった。

まず、ブリジャートン家の母親が最終話で、サイモンとの関係について悩むダフネに送った言葉を引用する。

We chose to love each other every single day
It is a choice, dearest
日々互いを愛することを選んだのよ
愛は意志なの

ダフネには理想の夫婦として写ってた両親の「愛」は、実はお互いがそうすることを意思を持って「choice=選択」し、努力してきた結果だと語っている。

もう一つ、今作のもう一人の母、フェザリントン家の母ポーラがやはり複雑な関係であるが娘と言えるトンプソンに贈った言葉も引用する。これは、トンプソンが表面的には愛のない、かつての恋人の弟との結婚について悩んでおり、ポーラに冷え切った長年の夫婦仲生活ををどう耐えてきたのか問いかけた時のセリフ。

You find things to love, my dear.
Small things. Big things, too, like your babies,
and eventually they  add up to enough.
愛は見つけるものよ
ささいな日常や生まれた子の中にね
やがて愛で満たされる

ここでは「愛」は自分から見つけるものと捉えられており、愛を注ぐ対象こそ少し違っているものの、先ほどのダフネの母親と同様に意思を持って選び取るものだと語れていると言える。

思い返すと、この作品はダフネが女王に今年の最高の女性だと「選ばれる」ところから始まり、ダフネは序盤は誰か素敵な男性に「選ばれ」ようと必死になっていた。しかしながら、先ほどのセリフを待たずともサイモンを自ら「選ぶ」という意志のある人物に成長していったことからも、選択というテーマが本作にとって重要だと読み取れる。

もちろんダフネだけではなく、サイモンも父への復讐というある意味で受動的なものではなくダフネへの愛を選択したり、トンプソンも複雑な結婚を選び取っている。また、細かいところで言うとサイモンの友人のボクサーも、ボクサーとしての誇りではなく家族を選ぶといった場面も展開されおり、各人の「選択」にも言及され、やはり大きなテーマとして取り扱われている。

・本当の「選択」とダメな「選択」

さらに作中における「選択」とその結果をさらに詳しく見ていると、実はこの「選択」はこの作品内で尊重されるものとそうでないものある。

この作品内では、何かを捨てるということを伴う「選択」しか尊重されない。例えば、サイモンのように父への復讐を捨ててダフネを選ぶこと、サイモンの友人のように八百長をやってまで家族を選ぶこと、トンプソンのように夫婦の愛こそないもののそれ以外にことで愛を見つけること、このような選択は幸せな結果を掴むことができる。
一方で、一見して選んでいるようで何も選んでいないという選択は不幸を迎える。これは何を指しているかというと、兄アンソニーが貴族としての生活と舞台女優=シエナとの愛を両方取ろうとしたことをことだ。アンソニーはシエナを舞踏会に呼ぶことで、表面的には何かを決断=選んだかのように見えるが、実際は何も選ばずどちらも獲得しようしただけだ。それを見透かされて彼女に「迷っているだけ」と逆に糾弾されてしまうという不幸な結末を迎える。
さらにもう一つ、フェザリントン家のギャンブル好きの父親も同じ目にあっている。彼は家族の安泰と自らのギャンブルをどちらも取ろうとして失敗、自らの死という最悪の結末を迎える。

このように本作では、何かを捨てて何かを「選ぶ」というような「選択」が強調されている。

・来シーズンはダフネが何を捨てるかという話になるのでは?

ここまで考えたときに、ダフネが他の登場人物達と比べて、選択した割には何も失っていないことに気づく。幸せな結末のためには、何かを捨てて「選択」することが重要となる本作では不公平に見える。
ここからは(僕が考えている)作品のテーマに沿った予想になるが、来シーズンはダフネが何かを失う話になると思っている。サイモンを「選択」し夫婦愛や子どもも全て獲得している彼女は、何かを捨てなくてはならない。そして、選択に失敗したアンソニーが改めて何を捨てて何を得るかということも話の中心になってきそうだ。

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