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1976年創刊 白泉社「LaLa」の挑戦〜大島弓子「夏の終わりのト短調」

大島弓子の「綿の国星」がマンガ界に衝撃を与え、若干後追いでハマっていった私。本作を含め、少女マンガ界が変動した1970年代後半、それを牽引した雑誌の一つが白泉社の「LaLa」だった。

本誌を私がいつ頃から購読し始めたか、1978年5月号掲載の“綿の国星シリーズ“第1作は単行本で読んだので、おそらく1978年の終わりあたりだろう。高校2年生の終わり、いよいよ受験準備に入る時期である。

「ナタリー」の記事によると、「花とゆめLaLa」として1976年7月に隔月刊として創刊。初代編集長・小長井信昌のコンセプトは、<本当にマンガが好きな読者が満足できる内容〜(中略)〜“マンガ読みのための雑誌“>、ただし<オタクとかマニア向に偏しない>というものだった。

その後、月刊誌となり1978年5月号に、シリーズ第一作「綿の国星」が掲載される。これ以前にも、大島弓子は「LaLa」誌上に発表しており、それが1977年10月号の「夏の終わりのト短調」である。花とゆめコミックスとして出版された「綿の国星」には、「夏の終わりのト短調」も収録されていた。

「夏の終わりのト短調」は、現在は表題作として単行本(白泉社)になっている。まだ夏の盛りだが、改めて本作を読んでみた。

創刊当初の「LaLa」の挑戦が十二分に伝わってくる、大島弓子の力作である。

冒頭はこうである。

<なんと その日は 悪魔も遠慮しそうな 上天気でした>

女子学生の袂(たもと)は、両親が3年間アメリカに長期出張する関係で、叔母の蔦子の家で生活することになる。高校3年の夏のことである。父の友人かつ義叔父である主人、一つ上で大学生の力(ちから)、小学校2年生の次男ますみ君との生活が始まる。

彼らが住むのは、袂の母を含め、多くの人が憧れる古い洋館。蔦子は姪の袂を現役で大学合格させることが自分の使命と、張り切っている。

夜九時で居間は閉まり、就寝の時間を迎える規則正しい生活。わんぱくだった力は、高校に入ると豹変し、1番でA大に合格している。

眠りにつこうとする袂の部屋の外で、草木がささやく。

<おおあの子の敏感そうなのを見た? 気がつくかしら 気がついたら最後よ うまくやらなくちゃ うまくやれるわよ>

翌朝七時、袂は蔦子が作る“完璧な朝食“をふるまわれる。こうして、“夏の終わり“に向かって、袂の高校生最後の夏が進行していく。

前述の「ナタリー」によると、<読者層は『花とゆめ』のやや上>をイメージしていたようだ。当時の私あたりから大学生だろうか。私から見える「夏の終わりのト短調」は、叔母・蔦子の物語である。つまり、大人のドラマである。

それを少女マンガに仕立てるために、袂という女子高生を登場させている。あるいは、そのことによって若い読者にリアルな社会を提示しているとも言える。

完璧を求める蔦子が袂に見せたいもの。

<このユートピア この美しい屋敷 この夫婦愛 この家族愛 この充実 この幸福>

蔦子はなぜ完璧を目指すのか、そしてその先には何が待っているのか。

この100ページにわたる中編を世に出した「LaLa」、その挑戦が感じられる。

なお「LaLa」の挑戦は続き、1980年4月号より山岸凉子の「日出処の天子」が連載開始となる


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