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太田光の“この人に会いたい“〜「爆笑問題 対談の七人」

小林信彦さんの「決定版 世界の喜劇人」について書きながら、「そう言えば、小林さんは爆笑問題が出た頃から褒めてたなぁ」と考えていました。

ふと、小林さんと爆笑問題が絡んだものがないか検索していたら、「爆笑問題 対談の七人」(新潮社)という本がヒットしました。2000年に出版され、その後「爆笑問題とウルトラ7」というタイトル(それにしても酷い改題)で文庫化されましたが、いずれも絶版。小林信彦含む、対談相手が素晴らしいので、Amazon経由で古書を購入しました。

私は爆笑問題を贔屓にしており、TBSラジオ「火曜ジャンク」は欠かさず聴いています。小林さんの賛辞、立川談志と彼らの関係性なども影響していると思います。加えて、太田光の発言の中に、なにか自分と趣味が重なるところを感じるせいもあります。

それをクリアに示しているのが、この対談集とも言えます。ラインアップは、明らかに太田光の“この人に会いたい“に見えます。そして、対談相手の七人は、強弱はあれど私の好きな人たちです。

なお、出版された当時、爆笑問題の二人は三十代半ば、対談相手の年齢は初出時点のものを書いておきます。

なぎら健壱(47歳)、最初に認知したのは1976年の映画「嗚呼‼︎花の応援団 役者屋のォー」。同名のマンガを曽根中生監督で映画化した第二作、応援団OBの薬痴寺先輩をなぎら健壱が演じていました。

立川談志(62歳)、爆笑問題が慕い敬い、談志も彼らの才能を見抜き応援しました。談志と太田は、「笑う超人」という、「黄金餅」と「らくだ」の無観客口演を収録したDVDまで出しています。

淀川長治(89歳、同年逝去)、映画評論のレジェンド。私の小学生時代は、TVでの吹き替え放送を見るのがメインの映画体験、「日曜洋画劇場」のヨドチョーさんの解説は、知らない人がいない時代。チャップリンを巡っての、対話は絶品です。

そして、小林信彦(66歳)。喜劇人の話、ラジオ、女優、映画と話はどんどん広がっていきます。小林さんは、<お二人がやっているのは、漫才なんですか?>と訊ね、太田は<僕は漫才だとは思ってないです。>と答えています。小林さんは、<爆笑問題は漫才ではないだろうけど、では何なのかが、うまく書けなかった>と受けています。この辺りに爆笑問題の魅力があるのでしょう。

“対談を終えて“で、太田光は“怖い人“だと思っていた小林さんが、<とても気さくで、取っつきやすく、優しい人という印象だった>と書いています。その上で、<“怖い“と感じるのは、小林さんの、芸能や世の中の事象に対する判断の下し方の厳しさ、一度自分の中に引き入れたモノに対し、価値の有る無しの評価の思い切りの良さ、に対してなのではないだろうか>とします。確かにそうで、私はそこにひかれて、小林さんをフォローし続けていたのだと思いました。

なんと、橋本治(50歳)登場。ラジオでも、太田光が“桃尻娘シリーズ“のファンだということを話しているので、あり得る選択肢だけれど、実際に橋本さんと爆笑問題の対談があったとは。カート・ヴォネガットの小説談義は予想できる展開だけれど、橋本さんが“お笑い“をこんなに見えていたとは驚きです。

山田洋次(69歳)、昔は“男はつらいよシリーズ“など、まるで興味を持たなかったが、今や休日の朝は、BGM的にTVで流し、“寅のアリア“を楽しんでいます。

最後を驚きのジョン・アーヴィング(57歳)。「ガープの世界」が翻訳されたのが、1978年。私は夢中になって読み、1982年ジョージ・ロイ・ヒル監督、ロビン・ウィリアムズ主演の映画も大好きでした。テーマ曲がビートルズの“When I'm Sixty Four“だったことも鮮明に覚えています。

太田光は、「ガープの世界」以降も、熱心なアーヴィング読者で、太田の興奮が伝わってくるような対談になっています。私の方はというと、1986年に村上春樹が翻訳した「熊を放つ」は読見ましたが、同年“新潮・現代世界の文学“シリーズとして出た「ホテル・ニューハンプシャー」は、今だに本棚から私の方を見つめています。

40年近い時を経て、「ホテル・ニューハンプシャー」、そろそろ読みごろかもしれません


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