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「ごまかさないクラシック音楽」〜岡田暁生と片山杜秀の対談

中公新書の「西洋音楽史」「オペラの運命」という岡田暁生が書いた二冊の本により、彼の名前は私の頭に深く刻まれた。

その岡田暁生と片山杜秀という、私と同年代の二人の学者が、彼らの専門分野でもあるクラシック音楽について語った本、それが「ごまかさないクラシック音楽」(新潮選書)である。

本社の“はじめに“で、岡田は<クラシックに関心のある人がきっと一度は抱いたことがあるはず>の疑問として、次のようなことを挙げている。

<「バッハはなぜ音楽の父なのか」 「ベートーヴェンはどうしてそんなに偉いのか」「ワーグナーはなぜあんなに長いのか」>、などなど。

確かに、クラシック音楽の王道と言えば、J.S.バッハ(1685-1750年)、モーツアルト(1756-1791年)、ベートーヴェン(1770ー1827年)、この辺りからロマン派となって、シューベルト(1797-1828年)。続くのがシューマン(1810-1856年)、ブラームス(1833-1897年)。他にも様々な作曲がいるが、18−19世紀の音楽が、最も多く演奏され、私を含め多くの人が好む。

なぜ、200年もの昔に作られた“西洋“音楽を、今も我々は聴いているのだろうか。それは、当時において突出した才能が世に現れ、それ以降は途絶えていることなのだろうか。

こうしたことについて、岡田・片山の両名は、“ごまかさずに“、彼らの想いのたけを話している。表現は悪いかもしれないが、飲み屋での二人の熱い会話を、読者は隣の席で膨張している、そんな本である。言いたいことは、決して堅苦しい対談ではないということである。

それでいて、「なるほど、なるほど」とうなずく箇所が多々ある。しかも、二人の独特の表現が納得感を増してくれる。

私の好きなのは、<ベートーヴェンは一代で創業者になっちゃった人ですよね>(本書より、片山)、<クラシック音楽とは究極「ベートーヴェン株式会社」だとは思いません?>(岡田)

バッハは特殊だし、社会的にも“株式会社“が興る土壌ではなかった。モーツアルトは、アイデアは一杯出したけれど、経営者という感じではない。

それに比べると、ベートーヴェンは、<交響曲、ソナタ、弦楽四重奏エトセトラ>を作曲し、<「フォーマット」>(岡田)を確立、企業経営的に言うとポートフォリオを整備した。そして、<その基本構図は「悩む人間の姿がいかに悩みを克服するか」というプロット>(岡田)。<そこが市民社会向けの新商品なんですね。>(片山)

続く“ロマン派“の作曲家たちは、<偉大な創業社長の後継者として、先代の事業を継承発展させなければならない、でもうまくいかない、悩むーこれがロマン派だとすら言える。>(岡田)

このような調子で、二人の話は現代音楽、さらにストリーミング配信などの技術革新にも触れる。雑誌「レコード芸術」の廃刊に象徴される通り、CDという<「ブツ」>(片山)の存在感が薄くなる中、クラシック音楽の「ごまかさないクラシック音楽の楽しみ方」はどう変化していくのか。

娘二人がクラシック音楽業界に身を置く親の身としては、その市場・演奏家の存在がどのように変化していくかは、気になるところである。

様々な時代の変化の中で生き残ってきた音楽、それは決して滅びることはないだろう、本書を読んで改めて感じた



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