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「乳と卵」と「夏物語」(その2)〜10年以上をかけて窯変した小説

(承前)

川上未映子の芥川賞受賞作「乳と卵」が発表されたのが2007年。それから10年以上の時が経過し、出版されたのが「夏物語」、「乳と卵」は、窯の中で変化し生まれ変わった。

2023年2月7日付のNew York Times紙。川上未映子のインタビューを含む、長い記事が掲載されており、彼女がいかに注目されているかが分かる。以下はこの記事からの抜粋、拙訳である。記事の冒頭で描かれるのは、帝国ホテルのパーティー会場、ツィードのグッチのドレスをまとい、エルメスのバーキンを握り、ビールを片手に作家や、関係者に会釈する彼女の姿だ。多くの人に、温和に挨拶する自身を評し、「私は、ホステス大学の卒業生だから」と話す。記事は、大阪の酒場で培われた観察力が、その小説に現れていると書く。

2015年、アメリカの読者に本格的に紹介されようとする際、新しい読者には「乳と卵」の登場人物たちに会ってほしいと、川上は考えた。ただ、「乳と卵」の単なる翻訳ではなく、「乳と卵」を新しい作品の出発点にしようと考えた。そうして完成したのが‘2019年の「夏物語」で、海外では「Breasts and Eggs」というタイトル、まさしく“乳と卵“として出版された。

川上は語る。「『乳と卵』には持っていたものを全てを注ぎ込んだ。しかし、10年が経過し、そのフェミニズムの観点を基に、さらに何かを作り得ることを自覚した。そして、私は女性の体の変化について、より良く理解していた」。「乳と卵」と「夏物語」の間の10年強の間に、彼女は男子をもうけている。

NYT紙の記事はこの程度にして、「夏物語」である。この小説は二部構成になっており、第一部は“二〇〇八年夏“と題され、「乳と卵」の大幅なリライトになっている。プロットは同一であり、「乳と卵」で使われた文章もあるが、その印象はガラッと違っている。なお、2008年は川上が芥川賞を受賞した年である。

姉の巻子、姪の緑子と過ごした三日間の夏の日を、巻子の妹が一人称で語るスタイルは同一ながら、「夏物語」で、主人公は夏子という名前を授けられる。そして、小説の冒頭では、東京に出てきて10年が経ち、夏子は<三十歳のわたしは、二十歳のわたしが何となくでも想像していた未来にいるかというと、たぶんまったくそうではない。未だにわたしの書いた文章を読んでくれる人は誰もいないし〜(中略)〜そもそも活字にもなっていない>。このように、夏子はブログで文章を書いていることが語られる。「乳と卵」で、文章を書くのは筆談しか行わない姪の緑子であり、それは「夏物語」でも踏襲されるのだが、緑子と夏子がシンクロする。

一言で言うと、「乳と卵」は社会に対して閉じられた世界であり、「夏物語」はその世界が開かれていると思う。それは、夏子が実体ある存在として、外に向かっていくことが感じられるからではないか。前作では登場しなかった、銭湯の“女性“カップル、“当たり屋“の九ちゃん、本好きの飲み屋の男性客など彼女達三人の外側にある存在が、夏子や巻子の目を通じてだが登場する。

第二部は、“二〇一六年夏〜二〇一九年夏“と題される長い物語である。“予告編“から時を経て、夏子は夏目夏子になり、本格的に社会と向き合い、文章を世に出す姿を表す。それは、さらに変化を続ける。そこには、「乳と卵」には登場したなかった、“男性“というものが実体のある存在として登場し、そのことは私にとって“ピンと来なかった“彼女の世界を、我が身に近づける作用をもたらす。

「夏物語」は、「乳と卵」の三人が孵化し、様々なキャラクターへと枝分かれし、彼女たちが織りなすドラマに、“男性“というものが加わることによって、より立体的な小説世界、“言葉“でしか描くことのできない世界を作り上げていく。そこには、子供を産むこと、子供として世に出ることというテーマが絡んでくる。“親ガチャ“などという言葉が流行る時代が投影されているとも言える。

見事であり、女性のみならず、男性にも是非読んで欲しい小説である。

復習はこのくらいにして、私は「黄色い家」にとりかかるとする





ちょっと蛇足ですが、前回、川上未映子の文章のリズム感、その心地よさについて書きました。第二部に、仙川涼子という魅力的な編集者が登場するのですが、彼女が夏子の小説について語る場面があります。

<「あの小説の何が素晴らしかったのか。どこにあなたの署名があったのか。それは設定とかテーマとかアイデアとか、(中略)そういうものじゃないんです。それは、文章なんです。文章の良さ、リズム、それは強い個性だし、書きつづけるための何よりも大きなちからです。あなたの文章には、それがあると思う」>

仙川さんは、夏子に対してこう話しているのですが、作者である川上未映子に対しても言ってくれているような気がしました。そうですよね、仙川さん


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