手術⑨|死という世界線
深刻さ、事の重大さを、測れていない私たち...
早朝から神経をすり減らし、生きた心地がしない時間を過ごしているが故に、 “理解が追いついていない” という方が正しいかもしれない。
だが、それ以上に「ECMO」についての知識が皆無だったため、説明中は少しばかり “ポジティブな処置” をしていると捉えてさえいた。
しかしながら、医師はさらに説明を続け、ECMOについても深く言及していく...
「そもそも、ECMO装着には大きな『リスク』が伴います」
“装着してれば安心” と言うわけではなく、装着中はそれ相応のリスクが生じてくるとのことだった。
まず、「血栓が出来やすくなる」ということ。
そのため、経過次第で凝固防止の薬を投与することになるが、それによって、あらゆる “合併症” や “感染症” などを引き起こす可能性がかなり高い。
ましてや、息子は生まれて間もない「新生児」。
身体の機能的にも長期の装着は厳しく、“そもそも ECMO装着自体に耐えられるか” というところもあった。
そのため、
「まず、『今日の夜を越えれるかどうか』といったところです」
と医師は言う。
この時初めて、「死」というものを意識した。
(俺の人生に、その “世界線” も存在するのか...)
「自分の子どもが死ぬ」という “世界線” 。
それは、ドラマや小説の世界、TVの中だけに起こりうるものだと思っていた。
先天性心疾患の判明があった時も、生まれた時も、NICUで入院している時も、いつだって息子を信じていた。
乗り越えられると思っていた。
どんなに壁や山があっても、 “俺の子は大丈夫” と心から信じていた。
そして、「『死』という世界線」すら、自分たちには存在しないんだと。
しかし、今この瞬間、息子は文字通り「生死を賭けた闘い」をしている...
本当に信じられないが、現実として起こっている。
そしてようやく、“医師が覇気を失っている理由” を理解することができたのであった。
ただ、幸いにも息子は、ECMO装着後から数値も上昇し、この時点での容態は安定していた。
しかし、引き続きECMOに耐えられるかという懸念も含め、手術後ということで急変するリスクも排除できないとのことだった。
仮に、息子の肺機能の低下が、「入院や手術による疲弊」なのであれば、自発的な生命活動のために “心肺機能の回復” は絶対条件であり、回復のため装着期間はより長い方が良い。
しかしながら、ECMOの装着期間が長くなればなるほど、息子の肉体は蝕まれ、別のリスクが生じ、生命の危険に晒されてしまう...
「2度目の相反する最善」とも言うべきか、このバランスをとりながら神経をすり減らす “もどかしい感覚” ...
妊娠中の激動の日々でも、同じようなことが起こっている。
(なぜ、こうも息子の人生はこの事象が現れるのだろう...)
(これが、所謂「カルマ(宿命)」なのか?)
あらゆる思考が、一瞬にして私の頭をよぎる。
しかし、如何なる意味があったとしても、現実として目の前に起こっている。
それを考えることはいまは無意味であることは、私もわかっていた。
そして最後に、医師よりこの後の流れも伝えられた。
まずは、 “今日を乗り越える” こと。
そして次に、可能な限り短い期間で「心肺機能の回復」を果たし、 “自発的に生命活動が出来るようにすること” 、つまりは「ECMOの離脱」を目指していく。
手術が終わり、また「新たな闘い」が始まったのだった...