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観世音菩薩普門品第二十五⑦【はじめての法華経】vol.14

【はじめての法華経】は、私が法華経ほけきょうを少しずつ読んでいく過程を報告するコーナーです。

今回は『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう』「観世音菩薩かんぜおんぼさつ普門品ふもんぽん第二十五だいにじゅうご」⑦です。(①~⑥はこちら

前回読んだ部分では、子どもが欲しいと思っている女性が観世音菩薩を礼拝し供養するならば、男の子であれば人徳と智慧を兼ね備えた子に恵まれ、女の子であれば整った容姿を持ち、過去世の善行によって人々から愛され大切にされる子に恵まれるだろう、と説かれました。

今回読む部分では、どのようなことが説かれるのでしょうか。

それでは読んでいきましょう。


無尽意むじんに若有人受持にゃくうにんじゅじ六十二億恒河沙ろくじゅうにおくごうがしゃ菩薩ぼさつ名字みょうじ

無尽意むじんにひとあって六十二億恒河沙ろくじゅうにごうがしゃ菩薩ぼさつ名字みょうじ受持じゅじし、


復尽形供養ぶじんぎょうくよう飲食衣服おんじきえぶく臥具医薬がぐいやく

かたちくすまで飲食おんじき衣服えぶく臥具がぐ医薬いやく供養くようせん。


於汝意云何おにょいうんが是善男子ぜぜんなんし善女人ぜんにょにん功徳多不くどくたふ

なんじこころ云何いかん善男子ぜんなんし善女人ぜんにょにん功徳くどくおおしやいなや。


無尽意言むじんにごん甚多世尊じんたせそん

無尽意むじんにもうさく、はなはだおおし、世尊せそん


仏言若復有人ぶつごんにゃくぶうにん受持じゅじ観世音菩薩かんぜおんぼさつ名号みょうごう乃至一時ないしいちじ礼拝供養らいはいくよう

ほとけのたまわく、ひとあっ観世音菩薩かんぜおんぼさつ名号みょうごう受持じゅじし、乃至ないし一時いちじ礼拝らいはい供養くようせん。


是二人福ぜににんぷく正等無異しょうとうむい於百千万億劫おひゃくせんまんのっこう不可窮尽ふかぐうじん

二人ににんふく正等しょうとうにしてことなることなけん。百千万億劫ひゃくせんまんのっこうおいてもきわくすべからず。


無尽意むじんに受持じゅじ観世音菩薩かんぜおんぼさつ名号みょうごう得如是とくにょぜ無量無辺むりょうむへん福徳之利ふくとくしり

無尽意むじんに観世音菩薩かんぜおんぼさつ名号みょうごう受持じゅじせば、かくごと無量無辺むりょうむへん福徳ふくとくん。 


無尽意むじんにひとあって六十二億恒河沙ろくじゅうにごうがしゃ菩薩ぼさつ名字みょうじ受持じゅじし、

かたちくすまで飲食おんじき衣服えぶく臥具がぐ医薬いやく供養くようせん。

なんじこころ云何いかん善男子ぜんなんし善女人ぜんにょにん功徳くどくおおしやいなや。

まず、言葉の確認をしましょう。

六十二億恒河沙ろくじゅうにおくごうがしゃ
恒河沙ごうがしゃ」は「ガンジス川の砂の数」という意味で、非常に数が多いことを意味するそうです。「恒河」=「ガンジス川」、「沙」=「砂」ということですね。

ですので、「六十二億恒河沙ろくじゅうにおくごうがしゃ」というのは、「六十二億もの、ガンジス川の砂の数のように非常に多くの」というような意味なのでしょう。

かたちくすまで
「形」というのは、人間の肉体のことを指すようです。その肉体を尽くすまで、ということですので、「命が尽きるまで」ということでしょう。

飲食おんじき衣服えぶく臥具がぐ医薬いやく
この4つの供養は「四事供養」とか「四供養」と呼ばれているようです。「飲食」は食べ物や飲み物、「衣服」は着るもの、「医薬」は薬です。「臥具」だけ、ちょっと聞き慣れない言葉ですね。「臥」というのは横になって寝る、という意味で、そのための道具ですから、「臥具」=「寝具」となります。

総合して、現代語訳してみると、次のような感じでしょうか。

「無尽意菩薩よ、もしある人が、六十二億恒河沙の菩薩の名前を心にたもち、その命が尽きるまでそれらの菩薩に飲食・衣服・臥具・医薬を供養し続けたとしよう。汝はどのように思うか。このような善男子、善女人が積む功徳は、多いだろうか、少ないだろうか」

これに対して、無尽意菩薩は次のように応えます。

無尽意むじんにもうさく、はなはだおおし、世尊せそん

「(それらの人々が積む功徳は)甚だ多いと思います、世尊」と、このように答えています。

「世尊」というのは仏さまを呼ぶときの言葉ですね。

これに対して、お釈迦さまは次のように説かれます。

ほとけのたまわく、ひとあっ観世音菩薩かんぜおんぼさつ名号みょうごう受持じゅじし、乃至ないし一時いちじ礼拝らいはい供養くようせん。

二人ににんふく正等しょうとうにしてことなることなけん。百千万億劫ひゃくせんまんのっこうおいてもきわくすべからず。

ここでは、観世音菩薩の名前だけを心にたもち、一度だけでも礼拝し供養したことのある人にもたらされる「福」について説かれています。

「是の二人」というのは、先にでてきた、「六十二億恒河沙の菩薩の名前を心にたもち、命が尽きるまで4種類の供養をし続けた人」と、「観世音菩薩の名前を心にたもち、一度でも礼拝し供養したことのある人」、この2種類の人のことを指しています。

これらの人にもたらされる「福」が、「正等しょうとう」(正しく平等)にして異なることがない、というのですから、観世音菩薩を供養することで得られるご利益が相当大きいことがわかりますね。

しかもその「福」は、「百千万億劫ひゃくせんまんのっこう」というとてつもなく長い時間が過ぎても、なくなることはないのだそうです。

無尽意むじんに観世音菩薩かんぜおんぼさつ名号みょうごう受持じゅじせば、かくごと無量無辺むりょうむへん福徳ふくとくん。 

最後に、お釈迦さまは次のようにまとめています。

「無尽意よ、観世音菩薩の名を心にたもち続ければ、このように無量無辺の福と功徳とがもたらされるのである」

「無量」は、はかり知れないほど大きいこと、「無辺」は、どこまでも果てしなく終わりがないさまを表しています。

◇◇◇

今回の記事は以上になります。切りのいいところで、と思ったら長くなってしまいました…

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

それでは、また。






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