『三四郎』 – 日めくり文庫本【12月】
【12月31日】
「里見さん」
出し抜に誰か大きな声で呼だ者がある。
美禰子も三四郎も等しく顔を向け直した。事務室と書いた入口を一間ばかり離れて、原口さんが立っている。原口さんの後に、少し重なり合って、野々宮さんが立っている。美禰子は呼ばれた原口よりは、原口より遠くの野々宮を見た。見るや否や、二、三歩後戻りをして三四郎の傍へ来た。人に目立たぬ位に、自分の口を三四郎の耳へ近寄せた。そうして何か私語いた。三四郎には何をいったのか、少しも分らない。聞き直そうとするうちに、美禰子は二人の方へ引き返して行った。もう挨拶をしている。野々宮は三四郎に向かって、
「妙な連と来ましたね」といった。三四郎が何か答えようとするうちに、美禰子が、
「似合うでしょう」と言った。野々宮さんはなんともいわなかった。くるりと後を向いた。後には畳一枚ほどの大きな画がある。その画は肖像画である。そうして一面に黒い。着物も帽子も背景から区別のできないほど光線を受けていない中に、顔ばかり白い。顔は瘠せて、頬の肉が落ちている。
「模写ですね」と野々宮さんが原口さんに言った。原口は今しきりに美禰子に何か話している。——もう閉会である。来観者も大分減った。開会の初めには毎日事務所へ来ていたが、この頃は滅多に顔を出さない。今日は久しぶりに、こっちへ用があって、野々宮さんを引張って来た所だ。うまく出っ食わしたものだ。この会をしまうと、すぐ来年の準備にかからなければならないから、非常に忙がしい。何時もは花の時分に開くのだが、来年は少し会員の都合で早くするつもりだから、丁度会を二つ続けて開くと同じ事になる。必死の勉強をやらなければならない。それまでに是非美禰子の肖像を描き上げてしまうつもりである。迷惑だろうが大晦日でも描かしてくれ。
「その代り此処ん所へ掛けるつもりです」
原口さんはこの時始めて、黒い画の方を向いた。野々宮さんはそのあいだぽかんとして同じ画を眺めていた。
「どうです。ヴェラスケスは。尤も模写ですがね。しかもあまり上出来ではない」と原口が始めて説明する。野々宮さんは何にも言う必要がなくなった。
「どなたが御写しになったの」と女が聞いた。
「三井です。三井はもっと旨いんですがね。この画はあまり感服出来ない」と一、二歩退がって見た。「どうも、原画が技巧の極点に達した人のものだから、旨く行かないね」
原口は首を曲げた。三四郎は原口の首を曲げた所を見ていた。
「八」より
——夏目漱石『三四郎』(岩波文庫,1990年改版)200 – 202ページ
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