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『移動祝祭日』 – 日めくり文庫本【7月】

【7月14日】

 初めてあの書店に足を踏み入れたとき、私はとてもおどおどしていた。貸し出し文庫に入会するための金も、持ち合わせていなかった。ところがシルヴィアは、入会金はいつでもお金があるときに払ってくれればいい、と言ってくれたうえ、貸し出しカードをその場で作ってくれて、何冊でも読みたいだけ持ち出してかまわない、と言ってくれたのである。
 そんなに私を信頼していいい理由などなかった。私は初対面の男なのだし、私が明らかにしたカルディナル・ルモワーヌ通り七十四という自宅の番地は、極貧の地区を示すものだったのだから。それなのに彼女は上機嫌で笑顔をふりまき、私を歓迎してくれたのだ。そして彼女の背後には、壁の最上端までぎっしりと、中庭に面した奥の部屋にまで、図書室の豊かな知識の宝庫を納めた書棚が並んでいた。
 私はツルゲーネフからはじめることにして、『猟人日記』の二巻、それとD・H・ロレンスの初期の作品——たしか『息子と恋人』だったと思う——を借りることにした。するとシルヴィアは、もっと持って言っていいのよ、と言う。それで、コンスタンス・ガーネット訳の『戦争と平和』と、ドストエフスキーの『賭博者、その他の短編』を選んだ。
「それを全部読んでいたら、しばらくはこられないわね」シルヴィアは言った。
「お金はちゃんと払いにきますから」私は答えた。「うちに帰ればお金がありますので」
「そんなこと言ったんじゃないの。お金はいつでも都合のいいときに払ってくれればいいんだから」
「ジョイスは何時頃ここにやってくるんですか?」私は訊いた。
「そうね、くるとしたら、たいてい午後の遅い時間ね。彼に会ったことはないの?」
「ミショーで食事している一家を見かけたことがあります」私は言った。「でも、人が食事しているところをじろじろ見るのは失礼だし、ミショーは高いですから」
「あなた、食事はお宅で?」
「ええ、たいていは。いいコックがいますので」
「あなたの住んでいる界隈だと、レストランはほとんどないんじゃない?」
「ええ。どうしてご存知なんですか?」
「ラルボーがあの界隈に住んでいたことがあるの。レストランがない点は別にして、とても気に入ってたわ、あのあたりを」
「いちばん最寄りの、安くていいレストランというと、パンテオンのあたりかな」
「そのあたりもよく知らないの。あたしたち、うちで食事するのよ。いつか、奥さんと一緒にいらっしゃいな」
「ぼくがちゃんと入会金をお支払いするのを見届けてもらってからならば」私は言った。「でも、ありがとうございます、本当に」
「そんなに急いで読まなくていいんですからね」彼女は言った。

「シェイクスピア書店」より

——ヘミングウェイ『移動祝祭日』(新潮文庫,2009年)56 – 58ページ


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