『パルムの僧院』 – 日めくり文庫本【1月】
【1月23日】
「連隊の居所さえわかっているといいんだが」と、酒保女は途方にくれたようにいった。「こんな大きな牧場をまっすぐに横切っても行けないし。とにかく、あんたは」と、ファブリスの方を向いて、「もし敵の兵隊を見かけたら、その剣のさきで突き刺すんだよ。切りをつけようなどと思っちゃだめだよ」
このとき、酒保女がさっきの四人の兵隊をまた見つけた。彼らは、森から野原の道の左手へ出てきた。その一人は馬に乗っていた。
「ちょうどあんたにいいのがある」女はファビリスにいって、「おーい!」と馬上の兵隊に呼びかけた。「こっちへ来てブランデーでもお飲みなよ」。兵隊たちは近づいてきた。
「第六軽騎兵隊はどこにいるの?」と、女はいう。
「あっちだ。ここから五分ぐらいのところだ。あの柳の木に沿うた運河の向うだ。マコン大佐のやられたとこさ」
「そのおまえさんの馬、五フランでどうだい?」
「五フラン! 冗談もいいかげんにしな、ねえさん。もうすぐ、ナポレオン五枚で売れようっていう将校馬だぞ」
「ナポレオンを一枚お出し」酒保女はファブリスにいった。それから、乗騎兵に近づいて、「さっさとおおりよ。ナポレオンをやるからさ」
兵隊はおりた。ファブリスは、快活に鞍に飛び乗った。女は、駄馬にのせてあった小さな旅行鞄をおろしかけた。
「みんな手つだっとくれ!」と兵隊たちに声をかけた。「ご婦人に働かして見ている気かい!」
だが、いま買いとったばかりの馬は、背に旅行鞄を感じると、すぐに後脚で立ち上がった。馬術は得意なファブリスも、それをおさえるのに必死にならねばならなかった。
「いい兆だよ」酒保女はいった。「この大将は旅行鞄などにくすぐられたことがないらしい」
「将軍の乗馬だぞ」売り手の兵隊は叫んだ。
「どう安く踏んでもナポレオン十枚ってところなんだ」
「さあ、二十フランあげよう」ぴちぴち動く馬にまたがってうれしくてたまらぬファブリスはそういった。
このとき、ななめに飛んできた砲弾が柳の木へあたった。まるで鎌でひとなぎに払いおとしたように、小枝が四方に散らばる奇異な光景を目撃した。
「おや、野郎いよいよこっちへ近づいてきやがった」兵隊は二十フランを取りながら彼にいった。もう二時ごろらしかった。
ファブリスがこのふしぎな光景に見とれていると、そこへ将官たちの一隊が二十騎ほどの軽騎兵を従えて、彼がそのはしに立ちどまっていた広い野原の一角を、ななめに疾駆して通りすぎた。彼の馬はいななき、二三度つづけざまに後脚で立ち上がって、ひきつけている手綱を頭をぐいぐい引っぱった。よし、好きなようにしろ! とファブリスは思った。
「第三章」より
——スタンダール 『パルムの僧院(上)』(岩波文庫,1969年改版)65 – 67ページ
ワーテルローの戦いに参加する主人公・ファブリスの無鉄砲さと狼狽ぶりが、口述筆記でわずか52日間で完成させた本作の勢いをよくあらわしているように思います。
岡本喜八監督の、戦場を描いた映画のワンシーンを観ているよう。
/三郎左
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