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『東京ミキサー計画』 – 日めくり文庫本【8月】

【8月10日】

 さてそうやって、町では「芸術じゃない、芸術じゃない」と言っていたものが、この法廷では「あれも芸術、これも芸術」と言いながら一時間以上も動き回っていたでしょうか。やっと撮影も終り、法廷内も静かになって、傍聴人はぽつり、ぽつりと傍聴席へ戻りました。弁護人は弁護人席へ戻りました。被告も被告人席に戻りました。白昼夢のような時間が去って、芸術の支配がだんだん遠慮していって、また法廷が法廷らしく静かになります。そうやって落書きを取り戻した空間に、中西の作品が一つ残りました。洗濯バサミのキャンバスです。ニイジマ君の肉体です。それが法廷内をゆっくりと歩いています。ニイジマ君はほかのを撮影している間もゆっくりと歩き回っていました。それが終わってからもまだ洗濯バサミを群がらせたまま、ゆっくりと歩き回っているのです。本人は暗黒舞踏のつもりなのかもしれません。裁判長が声をかけました。
「もうあなたの分は終わったのだから、席に帰ってください」
 ニイジマ君はゆっくりと歩くのを止めて、すなおに従おうとしました。でもすなおに考えたら従い方がわからなくなり、質問しました。
「あのう……、ぼ、ぼくは、ど、どこに帰ればいいんですか?」
 一瞬、裁判長は絶句しました。そして今度は傍聴席も絶句しました。弁護人も被告も絶句しました。いったいニイジマ君はどこに坐ればいいのでしょうか。
 ニイジマ君は傍聴人であります。だけど一方では芸術証拠品でもあります。証拠品は全部弁護人席の後の台に置いてあります。ニイジマ君はそこにしゃがんでいればいいのでしょうか。廷内は全員の絶句ののちに、また爆笑していまいました。
「……」
 爆笑の中に裁判長の沈黙はつづき、ついに答えはなかったのものと記憶しています。物品でもあり人間でもあるニイジマ君、結局自分の判断で被告席の後にある弁護人席に坐り、その日の裁判が終わるまでふんぞり返っておりました。

「終章 霞ヶ関の千円札」より

——赤瀬川原平『東京ミキサー計画 ─ハイレッド・センター直接行動の記録』(ちくま文庫,1995年)290 – 292ページ


1966年8月10日、東京地方裁判所七〇一号大法廷で行われた「千円札裁判」第一回公判からのひとコマ。
芸術であるものとないものの境界線で活動した、高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之からなる「ハイレッド・センター」の裁判記録には、法廷をも演劇的で、どこか〈フィクション〉的な空間にしてしまう「いたずら」な要素であふれています。

/三郎左

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