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『暇と退屈の倫理学』 – 日めくり文庫本【12月】

【12月30日】

第二章 暇と退屈の系譜学——人間はいつから退屈しているのか?

 これまでの議論で、退屈が人間と切り離しがたい現象であることは分かってもらえたと思う。退屈しない人間はおらず、生きることは退屈との戦いである。そんな印象すらある。
『聖書』は原罪という物語によって人間の宿命を説明した。それによって人々は、自分たちの苦悩に満ちた生について納得のいく解釈を得ようとした。私たち人間はかつて罪を犯したから額に汗して働かなければならなくなったし、女性は苦しんで子を産まねばならなくなったのだ、と。
 その宿命のなかに、「人間は退屈しなければならなくなった」という項目が入っていてもよかったのではないだろうか? 汝らはこれから退屈に耐えねばならない——神がそう命じた、と。そんな気すらしてくるのである。
 では、神が命じたにせよ、そうではないにせよ、人間はいったいいつから退屈し始めたのだろうか? たしかに退屈は人間から切り離しがたい。だが、だとしても、現に退屈が存在んしているのだから、それはやはりどこかの時点で始まったものであろう。
 退屈はいつどうやって発生したのだろうか? 退屈の起源はどこにあるのだろうか? 本章ではこの途方もない問いに敢えて取り組んでみたい。
 この問いには歴史学によっては答えを出せない。たとえば、古代の遺跡からだれかが退屈していたことを示す証拠が手に入ったとしても、当然ながらそこに退屈の起源を見出すことはできない。それ以前にも人間は退屈していたかもしれないからだ。
 本章では「系譜学」というやり方を採用することにしたい。歴史学は時間を遡るが、系譜学は論理を遡る。つまり、「何年にだれが何をした」と考えるのではなくて、いま我々の手元にある現象を切り開いて、その起源を見つけていこうとするのである。
 とはいえ、そのような手法のことはどうでもいい。早速取り組みを始めよう。

——國分功一郎 『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫,2022年)84 – 85ページ


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