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『ガラスの鍵』 – 日めくり文庫本【5月】

【5月27日】

 椅子二脚のあいだに置かれたテーブルの上に蓋の開いた箱があり、ムラドの煙草が三本入っていた。「ノンシャランでいこう」ムラドの広告のキャッチフレーズをぼそりとつぶやいて一本取り、紙マッチを探して火をつけると、台所に立った。オレンジ四つをトールグラスに絞って飲む。次にコーヒーを淹れて二杯飲んだ。
 台所から出ると、フェディンクがかぼそい一本調子の声で訊いた。「テッドはどこ?」片方の目がボーモントを見上げているが、まぶたは半分しか開いていない。
 ボーモントは長椅子に近づいた。「テッドって?」
「昨夜(ゆうべ)一緒にいた人」
「誰か一緒だったのか? 俺は知らないぞ」
 フェディンクは口を開き、雌鳥が鳴くような耳障りな笑い声を立てたあと、また閉じた。「いま何時?」
「それも知らない。そろそろ陽が昇るころじゃないか」
 フェディンクは枕代わりにしていた更紗のクッションに顔をうずめた。「昨日、せっかく理想の王子様を見つけて、結婚の約束までしたっていうのに、あたしったら、大事な王子様をほったらかしにして、その辺のごろつき[#「ごろつき」に傍点]を拾って帰ってきちゃったらしいわね」フェディンクは頭の上に伸ばした手を開き、また握りしめた。「ところで、ねえ、ここ、あたしのうちよね?」
「少なくとも、ここの鍵は持ってたぜ」ボーモントは言った。「オレンジジュースとコーヒー、飲むか」
「いらない。いまはただ死にたいだけ。もう消えてよ、ネッド。二度とあたしの前に現れないで」
「おいおい、そいつはまたひどい言い草じゃないか」ボーモントは意地の悪い口調で言った。「まあ、努力はしてみよう」
 コーヒーと手袋を着け、くしゃくしゃになった黒っぽいハンチング帽をコートおんポケットから引っ張り出してかぶると、フェディンクのアパートをあとにした。

「第2章 帽子のトリック」4より

——ハメット『ガラスの鍵』(光文社古典新訳文庫,2010年)74 – 76ページ


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