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『ヘルメスの音楽』 – 日めくり文庫本【3月】

【3月26日】

 それは〈たまもの(ドン)〉で始まる。

     *

 冒頭、全楽器による強烈な一撃。無償の〈贈与(ドン)〉としてほとんど奇蹟のように炸烈する一撃。それはしかし一度かぎりの分割不能な原点ではなく、原点であると同時に既にしてその反復でもあるという逆説的な二重性を自らの内に襞(プリ)のように畳み込んだ、複雑的な膣状陥没点(アンヴァジナシオン)である。それゆえにこそ、その中に包含(コンプリケ)されていたゆらぎやずれが互いに干渉し衝突しつつ虚空を渡って拡散していくことになり、そうやって広大な音楽空間を展開(エクスプリケ)していくことが可能になるのだ。〈炸烈(エクラ)〉のあとに〈多数多様なるもの(ミュルティプル)〉の戯れが揺曳する——ビッグ・バンのあとから全宇宙がひろがっていくように。
 言ってみれば、それは〈主〉の確たる意志を体した揺るぎなき一撃ではなく、〈主なき槌(ル・マルトー・サン・メートル)〉の一撃、偶然の戯れとして投げ出される〈骰子一擲(アン・クー・ド・デ)〉である。投げられた骰子は玉突きの玉のようにぶつかり合いながらきりもなく散乱していくだろう。〈襞にそって襞を(プリ・スロン・プリ)〉重ねつつ、ゆらぎがゆらぎを、ずれがずれを生む。エピクロスなら、偏倚(クリナーメン)が偏倚(クリナーメン)を、と言うだろう。そのプロセスこそが、作品の宇宙にほかならない。

     *

我々はここで何について語っているのか。ガラスの破片が不毛な煌めきを交しながら夜の虚空に散らばっていくかのようなマラルメの文学空間についてか。差延(ディフェランス)が差延(ディフェランス)を生みつつきりもなく散種(デイセミネ)されていくデリダの思考空間についてか。言うまでもなく、直接の対象はマラルメでもなければデリダでもない、ブーレーズの限りなく美しい音楽作品〈プリ・スロン・プリ——襞にそって襞を〉にほかならない。けれども人は、〈マラルメの肖像〉という副題をもつこの作品に耳を傾けるとき、ブーレーズにそって[#「そって」に傍点]マラルメを聴いているのであり、同時に、ブーレーズにそって[#「そって」に傍点]デリダを、マラルメの〈骰子一擲(アン・クー・ド・デ)〉の中にエクリチュールの至高の戯れを幻視するデリダを、聴いているのである。

「無声で呟かれる〈死〉——マラルメ/ブーレーズ/デリダを〈聴く〉」より

——浅田彰『ヘルメスの音楽』(ちくま学芸文庫,1992年)116 – 118ページ


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