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『ベートーヴェンの手紙』 – 日めくり文庫本【7月】

【7月6日】

31 〝不滅の恋人〟 〔一八一二年〕七月六日 朝

 わが天使、わが総て、われ自身よ!
 今日はただ二言、三言、それも鉛筆で(君の鉛筆で)——明日にならぬと僕の宿もはっきりと決まらない。こんなことで時間を浪費するのは全く無駄なことです! 当たり前のことだが、この深い悲しみは何故だろう? 僕たちの愛は犠牲を忍び、お互いに全ては求めない、というのでなければ成り立たぬのだろうか。君が僕だけのものでなく、僕が君だけのものでないことを、君は変えることができるだろうか?——おお神よ、麗しい自然をみつめ、このどうにもならぬことに対し、気持を静めて下さい。——愛は総てを求め、しかもそれが全て正しいのです。僕と君との間[#「僕と君との間」に傍点]、君と僕との間[#「君と僕との間」に傍点]がそうなのだ。——唯、君はともすると、僕は僕のために[#「僕は僕のために」に傍点]、そしてまた君のために[#「そしてまた君のために」に傍点]生きなければならぬことを忘れてしまうのです。——もし僕たちが全く一つに結び合っているなら、君も僕もこれほどの悲しみを受けなかったろうに。——ひどい道中だった。昨日の朝四時にやっとここに着いた。馬が足りなかったので、郵便馬車は普通と違った道をとったのです。しかし、何とひどい道だったことか。最後の立て場で夜道をしない方がいい、森が恐いぞとも言われたが、かえって刺戟を感じた。しかし、それは間違いだった。ひどい道で馬車は壊れてしまった。僕が雇ったような馭者だちでなかったら、恐らく途中で立往生しただろう。——エシュターハージーは別の普通の道を八頭立で来たのだが、四頭立の僕と同じ運命に遭ったのです。——しかし、うまく切り抜けた時はいつもそうだが、僕はむしろ愉快だった。——さて、外面のことから心のことに急ぎ戻ろう。きっともうじき逢えるだろう。この二、三日後の生活について思いを巡らせたことを、今日も君に伝えられないのだ。——もし、僕たちの心がいつも固く結び合っているなら、僕もこんなことを考えずとも良いのだが。胸がいっぱいだ。君に言いたいことがたくさんで、いっぱいだ。——ああ——言葉なんか本当に何の役にも立たぬ瞬間があるものだ。——気持を明るく持って下さい。——僕が君に取ってそうであるように、いつまでも僕の忠実な、唯一の宝、僕の総てであれかし。僕たちがどうでなければならぬのか、どうなるだろうか、と言うことは、何もかも神様が決めて下さるだろう。
     君の忠実なルートヴィッヒ

——『新編 ベートーヴェンの手紙(上)』(岩波文庫,1982年)270 – 271ページ


秘匿した三通の手紙はわずか二日間に書かれていたようですが、相手が誰なのかめぐって多くの人と多くの歳月が費やされています。
この文庫本でも32ページにわたってその一部が披露されており、まるで推理小説を読んでいるよう。

/三郎左

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